前  言(2)

弘前大学  植木 久行
  科研費「詩跡(歌枕)研究による中国文学史論再構築-詩跡の概念・機能・形成に関する研究-」にもとづく、平成18年度の詩跡の実地調査と資料・情報の収集は、2006年9月4日(月)から9月14日(木)にわたって行われた。この調査に参加した者は、前回と同じである。今回の主要な探訪地は、山東省済寧市→鄒城市→曲阜市→泰安市→済南市→陝西省西安市である。詩跡の宝庫である西安には6泊して、周辺に点在する詩跡を探訪した。

 山東省での調査は、兗州(エンシュウ)市の東郊を南流する泗水(シスイ)に架かる石造の水門(石堤)の跡、金口壩(キンコウハ、別名は金口堰[キンコウエン]、通行用の橋、水量調節のための水門を兼ねる)で始まった。ここは、近年、李白と杜甫が永別したところ、李白の「魯郡(兗州)の東の石門にて杜二甫を送る」詩に見える「石門」とされる場所である。我々の訪れた9月5日は、旧暦(農暦)では閏7月13日であり(3日後は白露節)、李詩の「秋波 泗水に落つ」る光景を見ることができたのは幸いであった。 済寧市(任城)の太白楼は、李白が飲んだ酒楼を記念する詩跡であるが、すでに森閑としてさびれた気配を漂わせていた。鄒城市の孟廟(孟子を祀る廟)は、曲阜の孔廟(孔子を祀る廟)とは全く異なって、静謐で厳かな雰囲気に包まれた聖域であり、孟子の故居(孟子の出生地、曲阜市の南端の鳬村)まで探訪できたのは、望外の幸運であった。この後、曲阜に帰り、孔廟・孔林(孔子とその子孫の墓地)等を参観した。

 青島から曲阜に向かう途中、ごつごつとした岩肌を露出させた山の多いことに驚いた。昨年、南の江蘇・安徽両省で見た山の風貌とは大きく異なり、西安市の南に横たわる終南山とも異なっている。こうしたなか、古来、五岳の筆頭に位置し、山東を代表する詩跡の1つ、泰山の雄姿を眺め、その山頂に登って、始めて「泰山は巌巌として、魯邦の詹(み)る所」(岩のそそり立つ泰山は、魯の国びとの仰ぎ見るところ。『詩経』魯頌「閟宮」(ヒキュウ))の句意を実感できた。そそりたつ険しい花崗岩の岩山「泰山」は、山東の山の特徴的な風貌をあらわしていたのである。

 古来、「泉城」と呼ばれる済南市は、大明湖、歴下亭、趵突泉(ホウトツセン)、華不注山、鵲山など、詩跡に富んでいる。しかし山を除けば、大きく変貌してきた。大明湖も歴下亭も、本来の位置ではなく、趵突泉も一時枯渇したが、ふたたび噴泉を取り戻している。たとえ本来の位置でなく、規模自体も縮小したとはいえ、歴代読み継がれてきた詩跡として、大明湖、歴下亭、趵突泉という古典詩語は、今もなお美しいイメージを喚起し続けている。趵突泉の再生も、文化・観光の両面で不可欠の存在として深い努力が傾注された結果であろう。四大水群の1つ、五龍潭の碧玉の水色は、忘れがたい美しさであった。

  十王朝の古都西安とその周辺は、詩跡の宝庫である。盛唐の自然詩人、王維の輞川荘探訪は長年の夢で、訪問の許可を申請したが、軍事施設等の関係で認められなかったのは、きわめて残念である。今回の詩跡調査は、漢代の都長安の未央宮探訪から始まり、秦の始皇帝陵や華清宮などを参観、その帰途、唐代の著名な離別の地、消魂橋とも呼ばれた灞橋の遺址を訪れることができた。

 輞川荘探訪が不可能になった今回、西安市南郊、南北斜め方向に約15キロ続く河谷盆地、樊川(ハンセン)が、とくに魅惑的な詩跡であった。北の韋曲から南の杜曲に至る樊川には、韓愈・権徳輿・鄭虔・杜佑・裴度・牛僧孺らの別荘(郊居・園池)があり、詩人たちの保養・交遊の場となっていたからである。なかでも杜佑の城南別墅は著名であり、孫の杜牧は子どものとき、しばしば遊び、晩年には修築して時おり訪れた。ここは現在、朱坡(シュハ)村と呼ばれている。唐初、華厳宗の初祖杜順の墓所として建立された華厳寺のそばである。急峻な坂道をてくてくと上っていくと、左手に7層の杜順の墓塔が建つ華厳寺跡へと通じる道が延びている。それをひとまず無視して右手方向に斜めに伸びゆく坂道を、息を切らせながら登り切ったところが、ひっそりと静かな朱坡村であった。その前方(南方)には、秀麗な終南山の山並みと美しい田園が広がっていた。盛唐の岑参の詩に歌われた「寺(華厳寺)の南 幾十峰、峰翠(みどり)にして 晴れて掬(すく)う可し」という情景を、まさに実感できたのである。

 今日残存する樊川の名刹、華厳寺、玄奘の墓塔のある興教寺、牛頭寺(ゴズジ)も、見晴らしの好い高台(原上)にあり、更には韓愈らの別荘のほとりにあった皇子陂(コウシヒ、大きな池の名。現在は消失。今日、皇子坡と書かれる)も、やや高い台地にあった。この実地調査によって平面的な地図では理解できない土地の高低感覚や眺望、空気など、当地独特の風貌を体感できたのは、大きな収穫であった。

 西安市の西郊では、まず斗門鎮の昆明池跡を訪ねた。漢代、昆明池を掘ったとき、その両岸に置かれた牛郎・織女の彫像のうち、運良く後者を祀る石婆廟(織女寺)を訪ねて織女の彫像を見ることができた。この後、戸県の渼陂(びひ)湖を訪ねた。杜甫が岑参兄弟の誘われて舟遊びをし、「渼陂の行(うた)」を作ったところである。杜甫の詩にちなんで建てられた空翠堂が、池中の島にある。現在の渼陂湖は、昔に比べて縮小したものであるが、水は澄み、終南山の山並みも見える景勝地であった。

 周至(昔の盩厔[チュウシツ])県の黒水(黒河)上流付近にあった仙遊寺は、白居易の名作「長恨歌」が誕生したところであり、盩厔県尉在任中の楽しい思い出を歌った白居易の名句「林間に酒を暖めて紅葉を焼き、石上に詩を題して緑苔を掃う」で知られた詩跡である。そこには、隋唐期に建てられた八層の法王塔が現存して仙遊寺の在りかを伝えていたが、西安市の水不足解消を主目的にダムが建造されて湖底に沈むため、近くの高台に移されることになった。現在、古塔はそのまま移されて、仙遊寺博物館も造られたが、ここ2,3年資金不足で再建が遅れているらしく、博物館内には見るべきものもなく、寺自体もまだなく、古塔のみがそびえ立つという状況であった。

 西安市内の大雁塔、小雁塔、大興善寺、青龍寺なども訪れたが、大雁塔のある大慈恩寺付近は、近年の観光産業の目玉にするべく整備され、広場には玄奘の像も建てられ、慈恩寺を詠んだ詩句を書いた燈籠が並んでいた。夜になると、大雁塔はライトアップされ、広場の照明は地面からなされて、夜遅くまでにぎやかであった。曲江池の再開発も計画されているが、曲江池南岸の秦二世皇帝陵(胡亥の墓)を保存する建物は、かなり荒廃していた。人気のあるスポットに投資する一方、なかなか手の回らない場所が生じているのである。
 西北郊外では、前漢の武帝の茂陵、唐の太宗の昭陵、唐の楊貴妃墓などを参観したが、「山を以て陵と為」した昭陵の規模の大きさには驚嘆した。葬られている九嵕山(キュウソウザン、海抜1188メートル)の麓、1つの陪葬墓のそばに昭陵博物館があるが、そこから山頂近く、「唐太宗昭陵碑」の建つ場所に至る道は天上の村々かと思われる間を縫って上っていく。その高所から眺めても、陪葬墓など、あまり見えない、「唐十八陵」の中でも最も巨大な陵園であった。

 このほか、天を祀る天壇の跡、大明宮の正殿含元殿や麟徳殿の遺址、阿房宮の版築も参考になった。ちなみに、含元殿は、現在全面的な復元工事に着手し、我々が訪れたとき足場を組んでいる最中であった。ただ西安の環境は必ずしも良好ではなく、空気はかなり汚れている。このため、大雁塔や小雁塔の最上階に上っても遠望できない惨状であった。
 
 今回の山東・陝西(センセイ)の詩跡探訪も、昨年同様に豊かな知見をもたらした。その成果は、前年度の江蘇・安徽とともに、このホームページ上に随時発表していきたいと思う。
                                      
平成18年11月4日