詩跡名 西施石(浣紗石)・西施殿
別称  
地理 浙江省諸曁(しょき)
代表作 盛唐の楼穎(ろうえい)「西施石」李白「祝八の 江東に之(ゆ)くを送り、浣紗石を賦(ふ)し得たり」
訪問日 2010.9
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説明  西施石(浣紗石)・西施殿…諸曁(しょき)市城区の南部、苧蘿山(ちょらさん)のほとりを流れる浦陽江(浣江(かんこう)・浣紗渓(かんさけい)・浣浦ともいう)の川岸に西施石(せいしせき)(浣紗石)がある。「天下之美人」(『淮南子』修務訓)と評された越の美女西施が紗(うすぎぬ)を洗ったところと伝える、1メートルほどの大きな石である。

 近くの岸辺の大きな岩には、浣紗の2字が刻まれており、王羲之が西施の古跡を尋ねたときに書いたものと伝える。今回
(2010年9月8日)の調査では、川の増水のため充分観察できなかった。近くには浣紗大橋、また西施大街などがある。苧蘿(ちょら)(龍山[陶朱山]の東に延びた支脈にあたる小丘、0,5キロ四方。別名は蘿山)の麓が、西施の故里である。

 西施は苧蘿
(諸曁)の人。西施の名は夷光。苧蘿山の山麓に二つの施村があった。夷光は西の施村に住んでいたので、西施と名づけられたという。現存する苧蘿二村はその伝承を持つか。李白の詩「西施」にもいう、「西施は越渓の女、苧蘿山より出づ」と。

 詩中に詠まれた西施石・浣紗石は、六朝末・庾信
(ゆしん)「趙王の 妓を看るに和す」詩の「長く思う 浣紗石」の句を初出とするようであるが、唐代になるとよく詠まれるようになる。盛唐の楼穎(ろうえい)「西施石」詩にいう、

西施 昔日 浣紗の津(しん)(岸)
石上の青苔 人を思殺す
一たび姑蘇
(こそ)(蘇州)に去りて 復た返らず
岸傍の桃李 誰(た)が為にか春なる

(『唐詩選』所収)


と。李白「祝八の 江東に之
(ゆ)くを送り、浣紗石を賦(ふ)し得たり」詩には、

未だ呉王宮殿に入らざる時
紗を浣
(あら)いし古石 今猶お在り


とあり、崔道融
(さいどうゆう)「西施灘(たん)」詩も伝わる。

 ちなみに南宋・施宿ら撰『嘉泰会稽志』巻11には、諸曁県と会稽県の両条に、西施石について言及する。諸曁県の条には、

「浣紗石は苧蘿山下に在り。一に西施石と名づく。『寰宇記』に『山下に石の迹有り。本
(も)と西施 紗を浣(あら)うの処。今浣沙石猶お在り』と。」

とあり、会稽県の条には、

「西施石は若耶渓
(じゃくやけい)(紹興市の東南の会稽山系から発し、北流して鏡湖[鑑湖]にそそぐ渓流。今の平水江)に在り。一に西子浣紗石と名づく。唐の王軒の詩に云う、『嶺上 千峰の碧、江辺 細草の春。今 浣紗石に逢うも、浣紗の人を見ず』」

という。

 ただし王軒の詩は、唐・范攄
(はんちょ)『雲渓友議』巻上、苧蘿過の条に、「舟を苧蘿山の際(ほとり)に泊し、西施石に題して曰く」として見えるものである。従ってそれは諸曁の浣紗石を詠んでおり、その説明は妥当ではない。こうした説を受けて、『大明一統志』巻45にも、浣紗石について、

「若耶渓
(じゃくやけい)の側らに在り。古えの西施 紗を浣(あら)うの所。或いは云う、苧蘿山下に在り、と」

という。李白の詩「浣紗石上の女」には、「玉面 耶渓
(やけい)(若耶渓)の女、青蛾(せいが)(青(くろ)き蛾眉(まゆ)) 紅粉の妝(よそおい)」とあり、これは明らかに諸曁の浣紗石を詠んだものではない。

 唐代すでに西施を記念する浣紗廟
(西子祠、西施殿)が造られている。

只今
(ただいま) 諸曁の長江(大河)の畔(ほとり)
空しく青山の 苧蘿と号する有るのみ


と歌われる晩唐・魚玄機「浣紗廟」詩は、西施を「浣紗の神女」
(魚玄機の詩)として祀る諸曁の廟を詠んだものである。晩唐・李商隠「蝶」詩に、

西子(西施)は遺殿に尋ね
昭君
(王昭君)は故村に覓(もと)

とあるのも、同じ建物を指して詠んだものであろうか。明・屠生
(とせい)「西子祠の壁に題す」詩には、「紅粉 渓辺の石、年年 落花漾う」と詠まれている。苧蘿東路2号の地に、1980年、西施を記念する西施亭が、1990年、西施殿が再建された。
(植木 久行)

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