詩跡名 爛柯(らんか)山
別称  石室山・石橋山
地理 浙江省衢州(くしゅう)
代表作
訪問日 2010.9
関連語
その他  
説明  爛柯(らんか)山…衢州(くしゅう)市の東南13キロ。もと石室山・石橋山ともいう。いずれも山に石室・石橋があるための命名である。爛柯山の名は後述の爛柯の故事が流布した唐代に始まり、それ以後、山の通称となる。道教の方では七十二福地の一(唐末・杜光庭「洞天福地記」)であり、北宋・張君房『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』巻27には七十二福地第三十に爛柯山をあげる。主峰の海抜は約180メートル。東西2キロ、南北1・9キロ。仙霞嶺の余脈である。 

 衢州は昔、信安郡
(県)と呼ばれた。晋の木こり、王質が石室のなかで童子(仙人)が碁をうつのを見て、斧(おの)の柄が腐爛(くさ)るまで時間の過ぎ去るのに気づかなかった故事(南朝・梁の任昉『述異記』…信安郡石室中、晋時樵者王質、逢二童子棋。与質一物、如棗核、食之不飢餓、置斧子坐而観。童子曰、汝斧柯爛矣。質帰郷閭、無復時人。『重較説郛(ちようこうせつぷ)』に収める晋・虞喜(ぐき)『志林』も同様の内容を持つ)で名高い。柯(か)は斧の柄をいう。【南朝・宋の山水詩人、謝霊運に「石室山」詩があるが、これは永嘉郡(浙江省温州市永嘉県)の楠渓のほとりの山を指し、爛柯山ではなさそうである。顧紹柏『謝霊運集校注』参照】

 唐代、爛柯山の詩跡化は急速に進んだ。中唐の孟郊「爛柯石」詩には、

仙界 一日の内
人間
(じんかん)(人の世) 千歳窮(つ)
双棋
(向かいあって碁を打ち) 未だ局を徧(あまね)くせざるに(一局を終えないうちに)
万物 皆な空と為る
樵客
(しょうかく)(木こり)返帰の路
斧の柯
(え) 爛(くさ)りて風に従う
唯だ余
(あま)す 石橋在りて
猶自
(なお) 丹虹凌(しの)ぐを(紅い虹が天空高くかかるよう)


と歌われる。

 石橋は石梁とも呼ばれる爛柯山の名勝。主峰の頂にあって、峰の上に高く架かる天然の橋のごとき巨石であり、今日「天生石梁」と呼ばれる。この石橋の下が石室
(東西30、南北20、高さ10メートル)にあたり、青霞洞とも呼ばれて、王質が仙人に遇って碁を見たところと伝える。

 中唐・劉迥
(りゅけい)の「爛柯山」詩4首には、

石橋 絶壑(ぜつがく)(深い谷)に架かり
蒼翠 鳥道
(険しく狭い山道)に横たわる


爛柯 遺跡有り
羽客
(うかく)(仙人) 何に由りてか訪ねん


などと詠まれる。
(『全唐詩』巻312には、『信安志』爛柯山の石刻に見えるとして、劉迥のほか、李幼卿・李深・羊滔・薛戎(せつじゆう)らの「爛柯山に遊ぶ」詩を4首ずつ収める。いずれも最高頂・石橋・仙人棋・石室二禅師を詠む。南宋・陳思撰『宝刻叢編』巻13、衢州、「唐遊石橋序并詩」の条には、「序は謝良弼(しやりようひつ)撰。詩は劉迥・李幼卿・李深・謝劇(ママ)・羊滔撰。元和七年(812)十二月十二日」とある)。

 また中唐・項斯「爛柯山に遊ぶ」詩には、

歩歩 塵雰(じんぷん)を出(い)
渓山 別に是れ春
壇辺 時に鶴過ぎ
棋処 寂
(せき)として人無し


云々と詠まれている。
 宋代以降も詩に詠まれ続ける。北宋・銭顗
(せんぎ)の「爛柯山に遊ぶ」詩には、

雲径 直(まさ)に深崦(しんえん)(深山)より入り
石梁
(せきりょう)(石橋)は 宛(あたか)も半空に在りて横たわる


という。陸游は何度も訪れ、「毛平仲を訪ねて疾を問い、其の子适
(かつ)と与(とも)に柯山(爛柯山の略称)に遊んで、王質の爛柯の遺跡を観る」(淳煕6年[1179]の作)などの詩を作っている。宋の柴随亨(さいずいこう)、明の胡応麟・徐渭(じょい)らも訪れて詩を作る。『爛柯山志』編纂領導小組『爛柯山志』(浙江人民出版社、1998年)によれば、爛柯山は唐宋以後、明清期に至るまで長く詩跡として歌い継がれている。爛柯山は現在、烏渓江(うけいこう)風景名勝区となる。
(植木 久行)

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