詩跡名 王羲之故居・題扇橋
別称  
地理 浙江省紹興市
代表作
訪問日 2010.9
関連語
その他  
説明  王羲之故居・題扇橋…紹興市城区東北隅の小山、戒珠山の南麓にある戒珠寺(かいしゅじ)(1924年再建、1984年重修)は、東晋の著名な書家、王羲之の別業(別荘)の跡地とされる。(西街72号)ちなみに高さ約50メートルの戒珠山は、王家山(王羲之が会稽内史に着任したとき、ここに家を建てたための命名)・蕺(しゅう)(越王勾践(こうせん)は呉王夫差に敗れると、この山に籠もり、「会稽の恥を雪ぐ」ために苦い肝を嘗め、食事も菜食にし、山で取れる蕺(しゅう)という苦い野菜だけにして、范蠡(はんれい)とともに呉を滅ぼす計画を練ったところと伝える)ともいう。

 戒珠寺の前には養鵞池
(ようがち)・洗硯池(せんけんち)(鵞池・墨池)があったはずであるが、現存しない。大切にしていた明珠がなくなったとき、親しくしていた老僧が盗んだのではないかと疑い、疎遠となる。僧の死後、白鵞が誤って飲み込んでいたことがわかって、後悔したが及ばず、住居を喜捨して、「戒珠講寺」の匾額を書いたという。

 南宋・施宿ら撰『嘉泰会稽志』巻13、王右軍宅の条には、「王羲之の宅は、山陰県の東北六里に在り。旧
(も)と戒珠寺と伝う、是れなり。『旧経』に云う、『羲之の別業に養鵞池・洗硯池・題扇橋有りて存す』と。今 寺に右軍の祠堂有り。既に之を別業と謂えば、則ち宅は是(ここ)にあらざるかと疑う」とある。戒珠寺は初めの名は昌安寺。唐の大中6年(852)、戒珠寺に改称された(『宝慶会稽続志』巻3)

 唐・劉言史の「右軍の墨池」詩には、

今に至るまで池の水は余墨を涵(ひた)
猶お諸泉と色同じからず


という。
 また北宋・趙抃
(ちょうべん)には「戒珠寺に遊び、右軍の故宅を悼む」詩、周紫芝には「晩(くれ)に戒珠寺に遊ぶ。寺は王逸少(王羲之の字(あざな))の旧宅なり。寺僧 燭を秉(と)り、王右軍の画像を観、出でて鵞・墨の二池を訪ぬ。帰れば已に三更なり」という詩がある。鄒志方・車越喬編『歴代詩人詠王羲之』(新華出版社、2002年)が参考になる。

 戒珠寺の前
(南)に題扇橋(だいせんきょう)(王羲之がここで扇(うちわ)の売れない老婆のために字を題(か)いてやり、たちまち売れたことにちなむ。現存の単孔石拱橋は清・道光8年(1828)の建造、長さは約20メートル)がある。南宋・王十朋に「題扇橋」詩が伝わる。
(植木 久行)

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