詩跡名 八詠楼
別称  
地理 浙江省金華市
代表作 李白「王屋山人魏万の 王屋に還るを送る」、南宋・李清照「八詠楼に題す」
訪問日 2010.9
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その他  
説明  八詠楼…金華市(婺(ぶ)州)城区の東南隅、東陽江の北岸にある高楼の名。前面が八詠灘(たん)。西流する東陽江と武義江が楼の右側前方で合流して婺江(金華江、双渓)となる。元・趙孟頫(ちょうもうふ)の七律「東陽の八詠楼」詩には風景の美しさを、

山城の秋色 朝暉(ちようき)(朝の日ざし)に浄らかに
目を極めて 登臨 未だ帰るを擬
(ほっ)せず。

西流の二水 玻瓈
(はり)合し
南に去る千峰 紫翠囲む



と歌っている。
 八詠楼の原名は玄暢楼
(げんちようろう)。南朝・斉の隆昌元年(=建武元年、494)、吏部郞から東陽郡太守に転出した沈約(しんやく)が創建し、建武2年(495)、50歳前後、「玄暢楼に登る」詩と「八詠」詩(玄暢楼八詠)(「登台望秋月」、「会圃臨春風」、「歳暮愍衰草」、「霜来悲落桐」、「夕行聞夜鶴」、「晨征聴暁鴻」、「解佩去朝市」、「被褐守山東」)を作り、絶唱として後世に伝誦された。北宋の『太平御覧』巻176に引く『郡国志』にいう、

「金華県は山に因りて城を為
(つく)り、南のかた渓水に臨む。高阜(こうふ)(高い丘)の上に楼有り。名づけて玄暢楼と曰う。宋(ママ)の沈約、造りて以て此の処に吟詠す」

と。
 明・馮惟訥
(ふういとつ)撰『古詩紀』巻84、八詠詩の条に引く『金華誌』には、

「八詠詩は、南斉の隆昌元年、太守沈約の作る所にして、玄暢楼に題
(しる)し、時に絶倡と号す。後人 因りて玄暢を更(あらた)めて八詠楼と為すと云う」

とあるが、唐代すでに八詠楼と呼ばれている。初唐・崔融
(さいゆう)に「東陽の沈隠侯(約)の八詠楼」詩があり、盛唐の崔顥(さいこう)にも「沈隠侯の八詠楼に題す」という詩が伝わる。さらに李白の「王屋山人魏万の 王屋に還るを送る」詩にも、

沈約 八詠の楼
城西 孤
(ひと)り岧嶢(ちょうぎょう)たり


中唐の厳維「人の金華に入るを送る」詩にも、

明月 双渓の水
清風 八詠の楼


という。北宋の至道年間
(995~998)、婺州の長官馮伉(ふうこう)が玄暢楼を八詠楼に改めたともされる(『方輿勝覧』巻7、婺州、八詠楼の条)が、従いがたい。崔顥の詩には、

梁の日 東陽の守
楼を為
(つく)りて 越中を望む
緑窓 明月在り
青史 古人空し


云々という。
(これは梁代の創建とする説であるが、穏当ではない)南宋の李清照は、紹興4年(1134)51歳ごろ、金華に避難して、「八詠楼に題す」詩を作り、

千古の風流 八詠の楼
江山 後人に留与して愁えしむ


云々と歌っている。続く元・黄溍
(こうしん)「八詠楼」詩の前半には、

古えを懐えば 荒碑在り
楼に登れば 晩望賖
(はる)かなり
秋陰 野に垂れて薄く、
江勢 城を抱いて斜めなり


という。

 八詠楼も興廃をくり返した。南宋・淳煕14年
(1187)、増築されたが、元・皇慶年間(1321~1313)、焼失する。明の万暦年間、再建され、清の嘉慶年間(1796~1820)、重修される。1984年、八詠楼は大規模に修復された。楼は長い石段を登る、高さ8メートルの台基上にあり、本来、双渓(東陽江と武義江)を眼下に収めたが、現在は視界が遮られている。
(植木 久行)

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