詩跡名 蘇州真娘墓
別称  
地理 江蘇省蘇州市
代表作
訪問日 2011.9
関連語
その他  
説明  蘇州真娘墓詩跡考
                          植木 久行

 
    序 文
 真娘は、唐代
(中唐期)の歌舞の上手な、蘇州の美しい妓女の名である。詳しい事跡は不明であるが、若くして亡くなると、蘇州城の西北郊外にあった武丘西寺(西武丘寺)に埋葬された。妓女が仏寺に埋葬されるのは、きわめて珍しい。中唐の李紳「真娘墓」詩の序に、「呉の妓人、歌舞に名有る者にして、死して呉の武丘寺の前に葬らる。呉中の少年(蘇州の若者)、其の志に従うなり。墓に花草多く、以て其の上に満つ」とある。この真娘を「貞娘」に作るものもあるが、真娘の表記が穏当であろう。

 細貝泉吉『江南の詩の旅』にいう、「真娘は当時江南の名妓として世に謳
〈うた〉われたほどだから、白楽天ばかりでなく、其墓に参詣する人は、頻りに憐香惜玉の意を寓した詩を作つて、其墓に題したものらしい」。白居易の「真娘墓」詩(宝暦元年[825]ごろの作)が作られた820年代ごろから会昌元年(841)に到る約20年間、真娘の墓を詠むブームが最高頂を迎えたらしい。晩唐の范攄 〈はんちょ〉『雲渓友議』巻中、「譚生刺〈そし〉る」の条に、「真娘は、呉国(蘇州)の佳人なり。時人は蘇小小に比べ、死して呉宮の側ら(蘇州城外)に葬らる。行客(参詣者) 其の華麗に感じ、競って詩を為〈つく〉りて墓樹に題〈しる〉し、櫛(の歯)のごとく比び、鱗のごとく臻〈あつま〉る」とあるのは、こうした状況の描写であろう。その後、気骨に富む挙子(進士科受験有資格者)・譚銖が、「色を重んじて(艶冶な)詩を留める」ことを批判する詩(後引。会昌元年[841]以前の作)を書いて、真娘墓の詩を作る人が次第に減少したようであるが、その後も真娘墓詩は長く作成されていく。

 真娘が埋葬された武丘西寺
(西武丘寺)は、現・蘇州市区の西北約3・5キロの地(金閶区)にある虎丘(=虎丘山、高さ約36メートル)にあった。虎丘は呉中第一の名勝として知られ、紀元前496年、越国との戦いで死んだ呉王闔閭の墳墓の地と伝える。

 唐末の陸広微重編『呉地記』や北宋の朱長文『呉郡図経続記』巻中によれば、虎丘
(山)は、もともと東晋の王珣〈しゅん〉とその弟、王珉の別墅(別荘地)であった。二人は咸和二年(327)、山宅をそれぞれ喜捨して虎丘寺となし、剣池を境に東西の二寺となった。江南を代表する古刹の一つである、この虎丘寺は唐代、太祖李虎の諱を避けて武丘寺と称され、それぞれ東武丘寺・西武丘寺、あるいは武丘東寺・武丘西寺と呼ばれた。

 白居易は蘇州刺史在任中の宝暦元年
(825)、蘇州と寺院との間にある沼沢地に、参詣に便利な武丘路(約3・5キロの水路「山塘河」と陸路「山塘路」[白公堤])を作り、水面に蓮を植え、堤の上には桃や李の木を植えた。

 東西の武丘寺は、ともに虎丘山下にあったが、唐の武宗会昌の廃仏
(845)の際に破壊され、後に山上に一寺として再興された。北宋時代には、雲巌(禅)寺と呼ばれた。通称は虎丘寺・虎丘山寺、清代には虎阜禅寺、現在、雲巌寺という。

 ちなみに、現存の真娘墓
(虎丘に登る山道の東)は、唐代以来のものとされるが、定かではない。真娘墓の場所を記す古い資料に、白居易「真娘墓」詩の原注「墓は虎丘寺に在り」、李紳「真娘墓」詩の序「死して呉の武丘寺の前に葬らる」、張祜「題真娘墓」詩の原注「墓は虎丘西寺の内に在り」、南宋・范成大『呉郡志』巻39の「墓は虎丘寺の側らに在り」、明・王鏊『姑蘇志』巻34「虎丘の路傍に在り。『図経』に云う、雲巌寺の西南の山下に在り」、清初の徐崧・張大純『百城烟水』、虎丘の条の注「東嶺の上に在り」などは、基本的に現存する墳墓の位置とは矛盾しない。ただ元の高徳基『平江記事』の「墓は虎丘剣池の西に在り」は、現在の真娘墓が剣池の東南に位置する状況とやや異なっている。現存の墳墓は清代・民国・1958年、たび重なる重修を経ており、大小二つの「古真娘墓」碑―清・康煕33年(1694)、張潮が建てた小さな石碑と乾隆10年(1745)、陳鐄が建てた大きな石碑―が現存する。


    唐詩中の真娘墓詩の展開
 作成年代を推定できる現存最古の真娘墓の詩は、白居易が、宝暦元年
(825)から翌二年、蘇州刺史在任中に作った雑言古詩「真娘墓」(原注…墓在虎丘寺)である。白居易は蘇州刺史に在任中、一年間に12度も武丘寺を訪れ、容・満・蝉・態など十人の妓女を連れてきたこともあった。本詩は武丘寺の中の西武丘寺を訪れたとき、彼女を弔った題墓詩であろう。詩の原注および第2句の「虎丘」の文字は、唐代、太祖李虎の諱を避けて「武丘」に作っていたはずである(以下の唐詩の場合も同様に考えられるが、文字を一一改めることはしていない)。白居易は、生前、真娘と直接会ったことはない(詩の第3・4句、第6句)が、「夭折して伝説化していた彼女に手向けた哀歌」(川合康三訳注『白楽天詩選』下)と評してよい。   

  真娘墓      真娘の墓
  虎丘道      虎丘の道
  不識真娘鏡中面  真娘 鏡中の面を識らず
  唯見真娘墓頭草  唯だ真娘 墓頭の草を見るのみ
  霜摧桃李風折蓮  霜は桃李を摧
〈くだ〉き 風は蓮を折る
  真娘死時猶少年  真娘死する時 猶お少年
  脂膚荑手不牢固  脂膚 荑手
〈ていしゅ〉 牢固ならず
  世間尤物難留連  世間の尤物は 留連し難し
  難留連      留連し難く
  易銷歇      銷歇
〈しょうけつ〉し易し
  塞北花      塞北の花
  江南雪      江南の雪

 【語釈】 ○虎丘道…武丘寺への路傍。 ○脂膚荑手…白くつややかな肌と、荑
〈つばな〉のように白く柔らかな手。『詩経』衛風「碩人」に「手は柔荑の如く、膚〈はだ〉は凝脂の如し」とある。 ○牢固…堅固、丈夫なこと。 ○尤物…絶世の美女。 ○留連…同じ場所に居続ける。ここではこの世に長く生き続ける意。 ○銷歇…消えうせる。銷は消と同意。 ○塞北花・江南雪…北方の寒い辺境に咲く花、暖かい江南に降る雪。そのように、はかなく散った真娘の死を愛惜する比喩。

 ちなみに、長慶二年
(822)の作らしい白居易の「寄李蘇州、兼示楊瓊」(李蘇州[諒]に寄せ、兼ねて楊瓊[歌妓の名]に示す)詩に、すでに「真娘墓頭春草碧、心奴鬢上秋霜白。為問蘇台酒席中、使君歌笑与誰同」(真娘の墓頭 春草碧〈みどり〉にして、心奴(歌妓の名?)の鬢上 秋霜白し。為に問う 蘇台(姑蘇台→蘇州)酒席の中、使君(刺史)の歌笑 誰と同〈とも〉にする)云々と見える。白居易は蘇州刺史に赴任する3年前ごろには、すでに真娘とその墓に関する知識があったのであろう。

 劉禹錫の「和楽天題真娘墓」
(楽天の「真娘の墓に題す」に和す)詩は、白居易の「真娘墓」詩に唱和した、宝暦二年(826)の作であろう。

  薝蔔林中黄土堆  薝蔔
〈せんぷく〉の林中 黄土の堆
  羅襦繡帒已成灰  羅襦 繡帒
〈しゅうたい〉 已に灰と成る
  芳魂雖死人不怕  芳魂は死すと雖も 人怕
〈おそ〉れず
  蔓草逢春花自開  蔓草は春に逢いて 花自から開く
  幡蓋向風疑舞袖  幡蓋
〈はんがい〉 風に向かって 舞袖かと疑い
  鏡燈臨暁似妝台  鏡燈 暁に臨んで 妝台に似たり
  呉王嬌女墳相近  呉王の嬌女 墳相い近し
  一片行雲応往来  一片の行雲 応に往来すべし

 【語釈】 ○薝蔔林…薝蔔は花の名。香りの強い梔子
〈くちなし〉の花のこととされる(異説あり)。「薝蔔の林」は仏典、たとえば『維摩詰所説経』観衆生品第七に「舎利弗よ、如〈も〉し人 瞻蔔(=薝蔔)の林に入れば、唯だ瞻蔔を嗅いで、余香を嗅がず」などと見えるが、ここでは仏寺の林を指す。 ○黄土の堆…堆は、うずたかい土盛り。真娘の墓を指す。 ○羅襦繡帒…薄絹の上衣と刺繍の袋(香嚢)。帒は「袋」の通仮。「黛」にも作るが、誤りである。 ○蔓草…伸び広がる草。はびこる草。 ○幡蓋…墳墓に立てられた幡〈はた〉や蓋い。 ○疑…下句の「似」と同意。 ○鏡燈…墓地に置かれた形見の鏡や灯具。 ○妝台…化粧台。 ○呉王嬌女墳…蘇州の閶門外に葬られた呉王闔閭の娘・滕玉の墳墓(後漢の趙曄『呉越春秋』巻2、『呉郡志』巻39、呉女墓)。嬌女は愛らしい娘。 ○行雲…流れ動く雲。宋玉「高唐賦」序に見える巫山の神女の言葉(旦〈あした〉には朝雲と為り、暮には行雨[通り雨]と為る)を改変して用い、ここでは真娘と呉王の娘の神霊を指す。蔣維崧・趙蔚芝ほか『劉禹錫詩集編年箋注』に、「両人都貌美少死、不得意于人世、故化行雲而往来相憐」と注する。

 中唐の沈亜之
(?~832?)の五律「虎丘山真娘墓」(虎丘山の真娘の墓)の作成時期は未詳であるが、没年を考えると、白・劉詩と同じ820年代ごろの作であろうか。

  金釵淪剣壑  金釵 剣壑に淪
〈しず〉
  茲地似花台  茲の地 花台に似たり
  油壁何人値  油壁 何人にか値
〈あ〉
  銭塘度曲哀  銭塘 度曲哀し
  翠餘長染柳  翠餘
〈おお〉し 長〈つね〉に染めし柳
  香重欲薫梅  香重
〈ふか〉し 薫らんと欲する梅
  但道行雲去  但だ道
〈し〉る 行雲去りしも
  応随蝶夢来  応に蝶夢に随いて来
〈きた〉るべし

 【語釈】 ○金釵…金の簪を挿した女性
(妓女)・真娘。 ○剣壑…剣池のこと。秦の始皇帝が虎丘(呉王闔閭の墳墓)に埋められた宝剣を探したところ、虎が出現した。剣で切りかかると、誤って岩を切り裂き、虎は逃げ、名剣も発見できなかった。この時の窪地にできた池という(陸広微重編『呉地記』。異説あり)。『呉郡志』巻16に、「剣池は浙中の絶景。両岸 劃〈わか〉れ開き、中に石泉を涵〈たた〉う。深くして測るべからず」とある。 ○茲地似花台…真娘の墓は花草に覆われていたため(李紳「真娘墓」詩序)、花に包まれた高台のよう、という。 ○頷聯…南朝斉の銭塘(杭州)の名妓・蘇小小を詠んだ「銭塘の蘇小小の歌」(作者未詳)、「妾は乗る 油壁車、郎は騎る 青驄馬〈せいそうば〉。何れの処にか同心を結ばん、西陵 松柏の下」になぞらえて歌う。真娘も同じ妓女だからである。油壁は青い油衣を張った女性の乗る油壁車。度曲は、曲の譜に従って歌う歌声。 ○頸聯…緑に芽吹いた柳の葉(→柳眉)と今にも咲こうとする梅の香(→香嚢)に、真娘の面影を偲ぶ。 ○行雲去…行雲は巫山の神女の故事(前述)に拠り、ここでは愛すべき女性・真娘を指す。それが「去る」とは、彼女の死をたとえる。 ○道…知る。 ○蝶夢…『荘子』斉物論の中に、荘周が夢に胡蝶となって楽しみ、自分と蝶の区別を忘れた話から、ここでは夢のことをいう。
 
 李紳の「真娘墓」詩は、開成元年
(836)七月から開成三年(838)八月に到る約二年間に、任地の汴州(河南省開封市)で詠んだ、昔日の旅遊を追想する作である。開成三年(838)の秋八月に成る作者自編『追昔遊詩集』巻下に収め、長い詩序をもつ。

 【詩序】 呉之妓人、歌舞有名者、死葬於呉武丘寺前。呉中少年、従其志也。墓多花草、以満其上。嘉興県前亦有呉妓人蘇小小墓。風雨之夕、或聞其上有歌吹之音
(呉の妓人、歌舞に名有る者にして、死して呉の武丘寺の前に葬らる。呉中の少年[蘇州の若者] 其の志[願い、遺言]に従うなり。墓に花草多く、以て其の上に満つ。[蘇州]嘉興県の前にも亦た呉の妓人蘇小小の墓有り。風雨の夕べ、或いは其の上に歌吹の音有るを聞く)

  一株繁艶春城尽  一株の繁艶 春城に尽き
  双樹慈門忍草生  双樹の慈門に 忍草生ず
  愁態自随風燭滅  愁態は 自から風燭に随って滅し
  愛心難逐雨花軽  愛心は 雨花を逐って軽くし難し
  黛消波月空蟾影  黛消えて 波月 蟾影
〈せんえい〉空しく
  歌息梁塵有梵声  歌息
〈や〉みて 梁塵 梵声有り
  還似銭塘蘇小小  還
〈かえ〉って似たり 銭塘の蘇小小に
  祗応迴首是卿卿  祗
〈た〉だ応に首を迴らして 是れ卿〈けい〉を卿とすべし

 【語釈】 ○一株繁艶…艶麗な花をたくさん咲かせた一本の樹。真娘の比喩。 ○春城…春の城
〈まち〉。蘇州を指す。 ○双樹…娑羅〈しゃら〉(沙羅)双樹の略称。広く武丘寺内の樹々を指す。 ○慈門…仏寺。慈宮ともいう。 ○忍草生…忍草は忍辱草〈にんにくそう〉。雪山(ヒマラヤ山)にある草。牛が食べると、醍醐を出すという(『大般涅槃経』巻27など)。それが「生ず」とは、真娘が境内に埋葬されたことをいう。 ○頷聯…真娘のはかない死にあって、愛惜する思いが尽きがたいことをいう。風燭は、生命のはかなさをいう言葉「風中の燭〈ともしび〉」を意識する。古楽府「怨詩行」に、「百年 未だ幾時〈いくとき〉ならざるに、奄〈にわ〉かに風の燭を吹くが若し」とある。また雨花は雨中の花。逐は随の意。 ○黛消波月空蟾影…眉月(三日月のような細い黛の眉)の語から発想して、真娘のはかない死を嘆く。蟾影は月光。蟾は蟾蜍〈せんじょ〉。月中に蟾蜍(ヒキガエル)が住むという伝承(『淮南子』精神訓)から月をいう。 ○歌息梁塵有梵声…真娘の歌声は聞けなくなったが、代わりに(墓は寺域にあるため)僧侶の読経の声が高らかに響く。梁塵は、魯の名歌手・虞公が歌うと、部屋の梁の上の塵を振るい動かしたとされることから、感動的なすばらしい歌声を指す。『太平御覧』巻572に引く劉向の『別録』に、「漢興已来善歌者、魯人虞公、発声清哀、蓋動梁塵」とある。 ○蘇小小…南朝斉の錢塘(杭州)の名妓。 ○卿卿…卿〈あんた〉を卿〈あんた〉と呼ぶ。親しい間柄の者を呼ぶ「卿」を用いて、親しげに呼びかけること。『世説新語』惑溺篇に見える王安豊の妻の話を踏まえていう。
 
 張祜
(792?~854?)の「題真娘墓」(真娘の墓に題す)詩も、正確な作成時期は未詳ながら、820~830年代ごろの作であろうか。詩の原注(南宋初の蜀刻本『張承吉文集』巻1の題下注)に、「墓在虎丘西寺内」とある。

  仏地葬羅衣  仏地 羅衣を葬り
  孤魂此是帰  孤魂 此に是れ帰す
  舞為蝴蝶夢  舞は蝴蝶の夢と為り
  歌謝伯労飛  歌は伯労の飛ぶに謝す
  翠髮朝雲断  翠髮 朝雲断ち
  青蛾夜月微  青蛾 夜月微かなり
  傷心一花落  傷心す 一花の落つるに
  無復怨春輝  復た春輝を怨む無し

 【語釈】 ○首聯…羅の衣裳をまとったあの女
〈ひと〉は、寺院の中に葬られ、孤独な亡き魂も、ここに落ち着き先を得た。 ○頷聯…真娘の美しい歌舞が(死亡で)見られなくなったことをいう。蝴蝶の夢は『荘子』斉物論に見える、荘周の夢の話(前述)を踏まえる。伯労は鳥の名、モズの類。「伯労飛ぶ」は、「東飛の伯労 西飛の燕、黄姑(彦星)織女 時に相い見る」(『玉台新詠』巻9所収)とある古い歌詞(南朝梁の武帝蕭衍の作ともする)に拠り、恋人や友人の離別を指す用法が生じた。ここもその一例で、死別によって、彼女の歌が聞けなくなったことをいうのであろう。「謝」は、衰えてなくなる→聞こえない意か。 ○頸聯…雲髪(黒々とした豊かで美しい髪)・眉月の語から発想して、美妓の死去を愛惜する。翠髮は、つややかな黒髪。青蛾は、青黒い黛で描かれた女性の、ほっそりとなだらかに曲がった美しい眉。蛾は蛾眉。「朝雲断」の断は「在」字にも作るが、わかりにくい。朝雲の語は、宋玉「高唐賦」序に見える巫山の神女の故事―楚の先王が巫山のほとりの高唐の観〈たかどの〉に遊んだとき、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は別れぎわ、「妾は巫山の陽〈みなみ〉、高丘の阻(険しい場所)に在り。旦には朝雲と為り、暮には行雨(通り雨)と為り、朝朝暮暮、陽台の下にあり」と告げた。翌朝、見てみると、その言葉どおりであったので、神女のために廟を建てて「朝雲」と名づけた―に見える。 ○一花落…真娘の死を指す。 ○春輝…春の陽光。
 張祜は、「題虎丘寺」詩のなかでも真娘の墓を詠む。詩題の虎丘寺は、第2句から虎丘西寺
(武丘西寺)を指す。

  軽櫂駐迴流  軽櫂
〈とう〉(小舟) 迴流に駐〈とど〉
  門登西虎丘  門は 西虎丘に登る
  霧青山月暁  霧青くして 山月暁
〈あ〉
  雲白海天秋  雲白くして 海天秋なり
  倚殿松株渋  殿
(仏殿)に倚〈よ〉りて 松株渋り
  欹庭石片幽  庭に欹
〈よ〉りて(横たわって) 石片(平たい岩)幽なり
  青蛾幾時墓  青蛾
(青黒き蛾眉の女性・真娘) 幾れの時の墓ぞ
  空色尚悠悠  空色 尚お悠悠たり

 呉
(蘇州)出身の譚銖(?~?)は、会昌元年(841)に進士科に及第した。及第以前の「挙子」のとき、七絶「真娘墓」詩を作ったという。晩唐の范攄 『雲渓友議』巻中、「譚生刺る」の条に、「真娘者、呉国之佳人也。時人比於蘇小小。死葬呉宮之側。行客感其華麗、競為詩題於墓樹、櫛比鱗臻。有挙子譚銖者、呉門秀逸之士也。因書絶句、以貽後之来者。睹其題処、経遊之者、稍息筆矣」(真娘は、呉国の佳人なり。時人は蘇小小に比べ、死して呉宮の側らに葬らる。行客 其の華麗に感じ、競って詩を為りて墓樹に題〈しる〉し、櫛のごとく比び、鱗のごとく臻〈あつま〉る。挙子譚銖なる者有り、呉門秀逸の士なり。因りて絶句を書いて、以て後の来者に貽〈おく〉る。其の題す処を睹て、之を経遊せし者、稍〈ようや〉く筆を息む)とあり、続いて「詩に曰く」として見える。

  武丘山下塚累累  武丘山下 塚累累
  松柏蕭条尽可悲  松柏蕭条として 尽く悲しむべし
  何事世人偏重色  何事ぞ 世人 偏えに色を重んずる
  真娘墓上独題詩  真娘の墓上 独り詩を題す

 真娘の墓が武丘西寺を参詣する人の関心を集めて、多くの題墓詩が作られた状況は、おそらく宝暦元年
(825)ごろに成る白居易詩前後の820年代から会昌元年(841)に到る20年間のことであろう。起句の武丘山は虎丘山、唐の太祖李虎の諱を避けた呼称である。

 譚銖の詩の出現によって真娘墓詩を作る人が次第になくなった、と記されるが、羅隠
(833~909)の「姑蘇の真娘墓」詩の存在は、真娘墓詩の作成が途絶えたわけではないことを表している。
 
 晩唐の李商隠
(813?~858)に「和人題真娘墓」(人の真娘の墓に題するに和す)詩がある。詩題中の「人」は、現存の真娘墓詩から特定することはできない。あるいは複数の真娘墓詩に対する唱和詩なのであろうか。譚銖詩との前後関係は明らかでないが、第2句から題真娘墓詩の盛行を踏まえた作詩なのであろう。『唐李義山詩集』(明嘉靖刊本、四部叢刊)巻5、『全唐詩』巻541などには、「真娘、呉中楽妓、墓在虎丘山下寺中」(真娘は、呉中[蘇州]の楽妓、墓は虎丘山下の寺中に在り)という題下注が付されている。

  虎丘山下剣池辺  虎丘山下 剣池の辺
〈ほとり〉
  長遣遊人嘆逝川  長えに遊人をして逝川を嘆かしむ
  罥樹断絲悲舞席  樹に罥
〈か〉かる断絲に 舞席を悲しみ
  出雲清梵想歌筵  雲を出づる清梵に 歌筵を想う
  柳眉空吐効顰葉  柳眉は 空しく顰みに効
〈なら〉う葉を吐き
  楡莢還飛買笑銭  楡莢
〈ゆきょう〉は 還た笑いを買う銭を飛ばす
  一自香魂招不得  一たび香魂 招き得ざりしより
  祗応江上独嬋娟  祗
〈た〉だ応に江上に独り嬋娟〈せんけん〉たるべし

 【語釈】 ○首聯…第1句は真娘墓の所在地。第2句は遊人の題詩詠嘆するさまを詠み、「人に和す」ことを明示する。「逝川を嘆く」は、時間の無情な推移を嘆く意。逝川の語は、『論語』子罕篇の「子 川上に在りて曰く、『逝く者は斯
〈か〉くの如き夫〈かな〉。昼夜を舎めず』」を踏まえ、ここでは真娘の長逝を指す。 ○罥樹断絲悲舞席…樹の枝にからみついて春風にただよう、ちぎれた遊糸(空中に吐き出されてただようクモの糸の類、ゴサマーgossamer)を見て、真娘が袖を翻して踊った宴席を悲しく思いやる。 ○出雲清梵想歌筵…青雲の上にまで響く清梵(寺院の清らかな読経の声)を聞いて、在りし日、真娘が高らかに歌った宴席を思いめぐらす。李紳の「真娘墓」詩に、「歌息みて 梁塵 梵声有り」(前掲)とある。 ○頸聯…李義山七律注釈班「李義山七律集釈稿(五)」はこう訳す、「あたかも春、ようやく緑の芽生える季節。柳は、かの絶世の美女西施にもたぐうべき女〈ひと〉―真娘の眉をまねようと、懸命に若葉を吹き出すが、肝心の女がとうにおらない今では全く空しいわざ。楡〈にれ〉は、世の君主たちが一笑を得んために粉骨砕身した褒姒〈ほうじ〉か楊貴妃のような女―真娘の歓心を買おうと、手持ちの莢〈さや〉の小判を懸命にまきちらすが、今からでもまだまにあうつもりなのか」(矢淵孝良執筆。ルビは引用者)。楡莢は、にれの実をつつむ羽のような形のさや。漢代の銭の形がこれと似ており、楡銭・楡莢銭の語もある。 ○香魂…真娘の香しい亡魂。 ○嬋娟…姿態の美しいさま。ここでは、あでやかに徘徊する意。

 晩唐・羅隠
(833~909)の五律「姑蘇真娘墓」(姑蘇[蘇州]の真娘の墓)は、現存する唐詩の中で最後を飾る真娘墓詩であろう。詩題は羅隠の別集『甲乙集』(四部叢刊)巻7に拠る。四庫全書本『羅昭諫集』巻2には「題真娘墓」と題する。ちなみに『全唐詩』巻661には、「姑蘇貞娘墓」と題し、題下に「墓在虎丘西寺内」と注するが、この注は前掲の二つの別集には見えない。東西の武丘寺は、ともに虎丘山下にあったが、唐の武宗会昌の廃仏(845)の際に破壊されたらしいが、真娘墓は破壊を免れたのであろうか。本詩が直接、真娘墓を訪れて追弔した作品であるならば、真娘墓が会昌の廃仏後も存続したことを示すことになろう。

  春草荒墳墓  春草 墳墓を荒
〈おお〉
  萋萋向虎丘  萋萋として 虎丘に向
〈あ〉
  死猶嫌寂寞  死しては 猶お寂寞を嫌い
  生肯不風流  生きては 肯えて風流ならざらんや  
  皎鏡山泉冷  皎鏡 山泉冷やかに
  軽裾海霧秋  軽裾 海霧秋なり
  還応伴西子  還た応に西子に伴
〈ともな〉われて
  香径夜深遊  香径に 夜深けて遊ぶべし

【語釈】 ○肯…反語の用法。 ○風流…みやびで色っぽいこと。 ○頸聯…山泉の清澄な水面を真娘の曇りなき皎鏡
(=明鏡)に、漂い動く海霧を軽やかに舞う真娘のもすそ(スカート)に見立てた発想である。曹植「美女篇」に「羅衣 何ぞ飄颻〈ひょうよう〉たる、軽裾 風に随って還〈めぐ〉る」とある。 ○西子…春秋時代の越出身の美女・西施。 ○香径…採香径(采香径)の略称。蘇州西南郊外の霊巌山(越王勾践から献上された越の美女・西施を住まわせるために、呉王夫差が造った華麗な宮殿・館娃宮があった処)から、西南の香山に伸びる約5キロの水路(谷川)の名。西施たちが香草を採るために掘られたとされ、径は涇(水路)と音通し、後には採香涇とも表記された。

 ○本稿は、科学研究補助金
(基盤研究(B))「中国文学研究における新たな可能性―詩跡の淵源・江南研究の構築―」(課題番号22320067、研究代表者植木久行)の研究成果の一部である。なお本稿は、第2章「虎丘寺題真娘墓詩一巻」、第3章「宋代以後の主な真娘墓詩」を加え、詳細な注を付して後日発表するが、ここでは第1章のみ先行して公開する。

(植木 久行)

  TOPに戻る