詩跡名 桃花潭(とうかたん)
別称  
地理 安徽省宣城市
代表作 李白「贈汪倫」
訪問日 2005.9.10
関連語
その他  
説明  涇県(ケイケン、宣城市の西南)の西南約40キロ、桃花潭鎮にある、涇川(青弋江[セイヨクコウ]中段の名。涇県の名の由来となる)上流の、清澄な深い潭(ふち)の名。天宝14載(755)ごろに作られた李白の「汪倫[オウリン]に贈る」詩、「李白 舟に乗って 将(まさ)に行かんと欲す、忽ち聞く 岸上 踏歌の声、桃花潭水 深さ千尺、及ばず 汪倫 我を送るの情に」によって、忘れがたい詩跡となった。

 汪倫とは、李白が涇県に遊んだとき、美酒をもてなしてくれた「村人」の名。近年発見の家譜によれば、汪倫は名を鳳林ともいい、先祖伝来の別業(荘園)を持つ当地の豪族であり、 涇県の長官にもなったことがあるという。
(注1)李白を招いたとき、すでに桃花潭のほとりに閑居していた、名門の豪士であったらしい。

 本来測りようもない心の深さ。それを眼前の潭の深さ千尺との計量的比較を通して、生き生きと実感させる巧みな着想である。「桃の花さく潭」という地名も、美しい。

 北宋の楊傑は、「太白の桃花潭」詩
(『無為集』巻7、題下注に李白の詩を引く)のなかで、謫仙人李白を思慕して、こう歌う、「桃花潭は似たり 武陵(陶淵明の「桃花源記」の舞台、武陵桃源)の渓に、太白の仙舟 去りて迷わんと欲す。岸上の踏歌 人 見えず、年年 空しく鷓鴣(シャコ、南国の鳥の名)の啼く有るのみ」と。同じく北宋の胡瑗「石壁」詩には、李白の同時期の作「汪氏の別業に過ぎる」2首(胡瑗「石壁」詩序には、詩題を「涇 川の汪倫の別業に題す」2首とする。注2)を踏まえつつ、「李白 渓山を好み、浩蕩として 涇川に遊ぶ。詩を題す 汪氏の壁に、声は動かす 桃花の洲を」云々と歌う。「声は動かす 桃花の洲」は、「汪倫に贈る」詩を踏まえた表現であろう。

 元の潘白修は、「李伯時 太白の舟を泛(うか)ぶる小像を画く」という題画詩
(『元詩選』2集巻17)を作り、「一笑して髯を掀(あ)ぐる[口ひげを動かす]は 底事(なにごと)にか縁(よ)る、桃花潭上に 汪倫を見る」という。「汪倫に贈る」詩にもとづいて作成された絵であったらしい。(注3)

 明の郭奎(カクケイ)の「涇県」詩
(『望雲集』巻4)には、「馬を立てて 空しく慙(は)づ 李白の題(詩)に」と歌った後、「但だ願う 功成りて 身退くこと早きを、桃花潭上 幽棲を結ばん」と歌い、同じ明の宗臣「涇県にて桃花潭を望む」詩(『宗子相集』巻11、題下注に「即ち李白 詩を題して汪倫に贈る処」とある)には、「桃花潭水 陵陽(宣城)に近く、潭上の春風 石梁に満つ。流水 仙客に随って去らず、秦人 何ぞ必ずしも三湘を渡らん」云々とあり、桃花潭附近は 武陵桃源のごとき別天地にも見立てられていく。他方では、離別(送別・留別)の地として 桃花潭の語を用いたものも見られる。(明の邵宝「馬天常と留別す」[『容春堂続集』巻5]など) 美しい友情につつまれた離別の地としてのイメージからである。

 こうしたなか、『大明一統志』巻15,寧国府・山川の条に「桃花潭」の名が見え、「涇県の西南一百里に在り、深さ測るべからず」の後に李白の詩が引用されて、詩跡として確立する。他方、明代、汪倫が李白を見送ったとされる渡し場(東園古渡)、桃花潭の東岸
(桃花潭鎮翟村[テキソン])の地は、2人の深い友情を記念して「踏歌古岸」と呼ばれ、岸辺に2層の「踏歌岸閣」が建てられた。清の乾隆年間、民国初期の再建を経て、今もなお現存する。(注4)

 今日、桃花潭西岸の切り立つ岩(彩虹岡)の上には、李白をしのぶ「懐仙閣」が再建されている。そこには、「『宛陵(エンリョウ)郡志』の記載に拠れば、塁玉墩・彩虹岡は、倶に(涇)県の西 桃花潭の上(ほと)りに在り。唐の李白、万巨・汪倫と与(とも)に詠遊せし処」という石碑が、岩のうえにはめ込まれている。
(注5)

 その彩虹岡の南端あたりに、汪倫の墓がある。墓碑には、「光緒十一年(清末の1885年)季秋(9月)重建/謫仙題/ 史官之墓汪諱
(この1字は小字)倫也」とある。傍らに立つ「重修汪倫墓碑記」( 1983年、涇県陳村郷人民政府建立)によれば、汪倫の墓は、もともと涇県水東(鎮の名、桃花潭鎮の旧名)翟村の東、金盤献果の地にあった。1958年、陳村水電站(水力発電所)を建設したとき(注6)、壊されたが、文化部門が資金を配分して彩虹崗(岡)に再建したという。

 なお旧墓のあった地の近くには、清の乾隆32年(1768)、翟氏一族が建てた文昌閣があった。文昌閣の創建は、李白の来遊を記念し、一族の文風の隆盛を顕すためとされ、現存のものは1990年の再建、3層八角、高さ25メートルの木造建築である。
(注7)
 今日、付近は「桃花潭景区」として整備された観光地となっている。



(注1) 詹鍈主編『李白全集校注彙釈集評』(百花文芸出版社、1996年)巻11,「汪倫に贈る」詩の条参照。
(注2)清の王琦輯注『李太白全集』巻34,附録4,叢説に引く『寧国府志』所載の胡安定(名は瑗)「石壁」詩序参照。「石壁」詩の1部も引かれている。
(注3) 明の王慎中「桃花潭水の別意の巻に題す」詩(『遵厳集』巻7)にいう、「水に暎(うつ)る桃花 千尺の潭、水は花の色を涵(ひた)して 転(うた)た深きを看る」と。これも、題画詩である。
(注4) 蕭夢龍主編『江南勝跡』(江蘇科学技術出版社、1993年)に拠る。『嘉慶重修一統志(大清一統志)』巻115,寧国府の条には見えない。
(注5) 『嘉慶重修一統志(大清一統志)』巻115,寧国府、山川、桃花潭の条に、「 涇県の西南に在り。 唐の李白、万巨・汪倫と与(とも)に此の潭に遊ぶ。上(ほと)りに釣隠台・彩虹岡・塁玉墩有り。皆当時遊詠の所。李白の詩に、『桃花潭水 深さ千尺』と。即ち此(ここ)なり」とある。
(注6) この時できた人造湖が、太平湖(旧名は陳村水庫)である。
(注7) 主に(注4)と同じ蕭夢龍主編『江南勝跡』による。 一説に 乾隆35年(1770)に建てられたともいう。
〔補 注〕
 清の袁枚(1716~1797)『随園詩話補遺』巻6(顧学頡校点、人民文学出版社、1998年版)にいう、「唐の時の汪倫なる者は、涇川の豪士なり。李白、将(まさ)に至らんとするを聞き、書(手紙)を修めて之を迎えんとして、詭(いつわ)りて云う、『先生は遊(たび)を好むか、此の地に十里の桃花有り。先生は飲(さけ)を好むか、此の地に万家の酒店有り』と。李、欣然として至る。乃ち告げて云う、『「桃花」は、潭水の名なり、並びに(全く)桃の花無し。「万家」は、店の主人、姓万なり。並びに万家の酒店無し』と。李、大笑し、款(よろこ)びて留まること数日、(汪倫は)名馬八匹、官錦十端を贈りて、親(みずか)ら之を送る。李、其の意に感じて、桃花潭絶句の一首を作る」と。この面白い話は、近年しばしば桃花潭の解説に引用されるが、その拠り所について、袁枚自身全く触れておらず、未詳である。 本条には、続いて「今 潭は已に壅塞(ヨウソク)す。張惺斎(炯…原注)題して云う、『蝉は一葉を翻して空林に墜ち、路は桃花を指して 尚お尋(たず)ぬ可し。怪しむ莫かれ 世人の交誼の浅きを、此の潭は 復た旧時の深さに非ず』」云々とある。桃花潭が壅塞して浅くなったという指摘は、張惺斎の詩にもとづく推測なのであろうか。李白当時の桃花潭の深さが「千尺(約300メートル)」という詩的表現しか伝わらない現状では、壅塞について的確な判断を下しかねるが、現在の桃花潭は、昔に比べてかなり浅くなっている可能性が高い。実際に訪れてみた印象では、極度に深い潭には見えなかった。                               
(植木 久行)

安徽省目次に戻る /  TOPに戻る