詩跡名 水西寺
別称
地理 安徽省宣城市
代表作 李白「遊水西、簡鄭明府」、杜牧「念昔遊」
訪問日 2005.9.10
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その他  
説明  宣城市の西南、涇(ケイ)県の城(まち)の西郊2・5キロの地、「林壑深邃」(『方輿勝覧』巻15)な水西山にあった古刹の名。水西とは、涇渓(涇県内を流れる青弋江[セイヨクコウ]のこと、賞渓ともいう)の西側にあるための呼称である。涇渓を隔てて涇県城と向き合う。李白が晩年、「水西に遊び、鄭明府に簡(よ)す」詩のなかで、「天宮 水西寺、雲錦(朝焼け)のごとく 東郭に照る。清湍(セイタン、清き早瀬) 廻渓に鳴り、緑竹 飛閣を繞(めぐ)る。涼風 日び瀟灑(ショウシャ)、幽客(隠士) 時に憩泊す。五月(盛夏) 貂裘(チョウキュウ、暖かいテンの皮衣)を思い、秋霜落つと謂言(おも)えり」云々と歌ったところである。
 清の趙宏恩ら監修『江南通志』巻47,寧国府 涇県の条にいう、「崇慶寺は県の西に在り。南斉の永平(永明?)元年(483?)に建て、凌巌と名づく。唐の上元の初め(760)、天宮水西寺と改む。大中(847~859)の時、相国の裴休、重建し、黄蘗(=黄檗、オウバク)禅師住持す。宋の太平興国(976~983)(注1)、今の名を賜う」と。これによれば、李詩は最晩年の上元年間(760~1)の作となろう。(李白は762没) 
 中唐の詩僧皎然(キョウネン)「峴山(ケンザン、浙江省湖州市南)にて崔子向の 宣州に之(ゆ)きて、裴使君に謁するを送る」詩にも、「秋天 水西寺、古木 宛陵城」と見え、中唐前期、すでに宣城(宛陵)付近の名刹として知られていた。(注2)
 続いて晩唐の杜牧が、宣州(宣城)滞在時に水西寺を訪れている。後に「昔遊を念(おも)う」その3に、「李白 詩を題す 水西寺、古木 廻巌 楼閣の風。半醒半酔 遊ぶこと三日、紅白 花は開く 山雨の中」と歌い、 涇県の水西寺を詩跡化した。(注3) 寺のある水西山自体も、北宋末の曽紆(ソウウ)「宣州の水西」詩に、「宣州の水西 天下の勝」(『方輿勝覧』巻15)と歌われている。
 ただ水西山には、唐代すでに水西寺(宝勝寺)・天宮水西寺(崇慶寺)・水西首寺(唐の上元年間建立。唐末の乾寧2年[895]、白雲院となる)の、いわゆる水西3寺が対峙して(注4)、亭台・楼閣が林立していた。
 従って単に水西寺といった場合、厳密には3寺のどれを指すか未詳であり、3寺の総称としての用例もあろう。宣城出身の北宋の著名な詩人、梅尭臣「擬水西寺東峰亭九詠」詩の水西寺は、水西首寺を指している。ただ詩跡化の源泉である李詩との関係でいえば、主に天宮水西寺、後の崇慶寺が中心となろう。
 北宋の徐鉉「元上人の 水西寺に還るを送る」詩(『騎省集』巻22)には、「李白 高吟の処、師帰りて 竹関を掩(とざ)さん」という。また南宋の李彌遜(リビソン)「秋霜閣」詩(『筠渓集』巻14)にも、「十月 水西寺、興窮まるも 還(な)お為(ため)に留まる。幾(いくば)く(李)太白を傷ましむるを知らんや、五月 貂裘を念うと」とあり、原注として山中の寺院の肌寒さを詠んだ李白の詩句(五月思貂裘、謂言秋霜落)を引いて、秋霜閣の名の由来を説明する。宣城出身の清初の著名な詩人、施閏章「水西の行(うた)」の序には、「水西寺は黄蘗道場為(た)り。……李太白、数(しばし)ば嘗て遊詠」し、「此の山は太白を以て名あり」云々とあり、「釣魚台下 青玉を浮かべ、秋霜閣畔 貂裘を思う」と歌っている。秋霜閣は崇慶寺の背後にあって、「水西の勝を擅(ほしいまま)にす」(『大清一統志』巻80)るところという。

 現在、水西3寺のうち現存するものは、宝勝寺(黄蘗寺)のみである。その前(西)には、北宋の崇寧年間に建て始め、大観2年(1108)に成る七層(高さ50メートル)の、いわゆる大観塔(崇寧塔、水西大磚塔)がそそり立つ。宝勝寺から少し離れた右側(北)、白雲泉のほとりに位置する七層(塔頂は崩壊)の古塔は、南宋の紹興31年(1161)に建造された紹興塔(小方塔、乾応塔)である。この2つの古塔は「水西の双塔」と呼ばれ、なかでも 堂々たる威風を持つ大観塔は、今もなお登って眺望を楽しむことができる。李白・杜牧ゆかりの天宮水西寺(後の崇慶寺)が失われた現在、宋代の古塔付近を散策して、在りし日々を偲ぶほかないのである。ただし『大清一統志』巻80、宝勝寺の条によれば、水西寺の旧名をもつこの寺こそ、「唐の李白・杜牧、倶に詩有りて游びしを紀(しる)す」ところとする。


(注1) 現在、大観塔のそばにある「水西双塔記」によれば、太平興国5年(980)、崇慶寺に改名されたという。
(注2) 北宋の林逋「送思斉上人之宣城」(『林和靖集』巻1)にも、「蕭閑水西寺、駐錫莫忘帰」とある。
(注3) 南宋の韓元吉の詞「水調歌頭」(和龎祐甫見寄)に、「紅白山花開謝、半酔半醒時節、春去子規愁。夢繞水西寺、回首謝公楼」とある(『南澗甲乙稿』巻7)。これは、明らかに杜牧の詩を踏まえる。
(注4) 前引の 『江南通志』巻47,寧国府 涇県の条や、李白「山僧に別る」詩に対する清の王琦注(『李太白全集』巻15)等によれば、宋代以降の宝勝寺(旧名は水西寺・五松院、北宋の元豊5年[1082]の改名)が水西寺、崇慶寺が天宮水西寺、(白雲泉のほとりにある)白雲院が水西首寺である。

(補注) 唐の宣宗に「涇県の水西寺に題す」(大殿連雲接賞渓、鐘声還与鼓声斉。長安若問江南事、説道風光在水西)という詩が伝わる。『万首唐人絶句』巻69,『全唐詩』巻4等所収。唐の宣宗李忱は太子であったとき、宝勝寺で出家・隠棲したことがあり、この詩句を作ったという。またゆかりの太子泉の名も伝わる。(現地で収集した「安徽水西国家森林公園旅游風景区」と題されたパンフレットによる) 清の施閏章「水西の行」の序の、「又た伝う、 唐の宣宗竜潜の処」の語は、この伝承に基づく。古くは、『方輿勝覧』15,寧国府、水西山の条に引く『郡志』に、宣宗詩の後半2句を引く。 また宋の華岳「早春十絶」(其7,水西)には、「詩道風光在水西、水西我意未為奇」という。(『翠微南征録』巻11) 上句は、宣宗の詩を踏まえている。
(植木 久行)

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