詩跡名 謝公亭
別称 謝亭
地理 安徽省宣城市
代表作 李白「謝公亭」
訪問日 2005.9.9
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その他  
説明  六朝・斉の詩人謝朓が、宣城郡太守在任中(495~496年)、零陵(湖南省)の内史として赴任する友人、范雲を見送った場所とされ、北宋の黄裳『新定九域志』巻6,宣州の条に、「斉の宣城太守謝玄暉(朓)置く」という。(注1)現在の宣城市区の北側、宛渓・句渓(コウケイ、ただし、現在、その跡が部分的に残存するのみ)・水陽江の合流する三叉河付近(「宣城市交通導游図」山東省地図出版社、2005年1月第2版によれば、上新村に属する地)である。(注2) 
  謝朓が、范雲を見送った本来の送別地は、建康(南京市)の西南郊外の新亭(労労亭)であったが、李白はあえて当地の伝承に従って「謝公亭」詩を作り、「謝亭は 離別の処、風景 毎(つね)に愁いを生ず。客は散ず 青天の月、山は空し 碧水の流れ」云々と歌う。
(注3)謝亭は謝公亭の略称である。
 晩唐の許渾は、「謝亭送別」詩
(注4)のなかで、「労歌(「労労亭歌」の略。送別の歌の意)一曲 行舟(旅立つ舟のともづな)を解く、紅葉 青山 水 急に流る」と歌いあげ、宣城の著名な送別の詩跡として確立した。(注5)少し後の池州出身の詩人、張喬の「謝公亭懐古」詩(注6)にいう、「六朝の旧跡 詩を遺(のこ)して在り、三楚の空江 雁有りて廻る」とある。遺詩とは、謝朓の「新亭の渚にて范零陵雲に別る」(『謝宣城集』巻3,『文選』巻20)を指す。また李洞の「張喬の下第して宣州に帰るを送る」詩には、「成る無くして 来往して過ぎ、謝亭の松を折り尽くす」という。この謝亭の語も、宣城の離別の地としてのイメージを踏まえたものである。
 北宋の李彭「潤上人の 宛陵(宣州)に帰るを送る」詩
(『日渉園集』巻1)に、「唯だ謝公亭のみ有りて、頗る復た清夢に到る」というのは、すでに述べた離別の地としてのイメージを踏まえて望郷の念を表したものであろう。南宋の朱翌「宣城書懐」(『灊[セン]山集』巻3)中の、「謝公の亭 范(雲)に別る」は、既述の伝承を踏まえる。
 明の湯右曽の詩「朱立山太守 新詩を枉(ま)げられて奉答す」
(『懐清堂集』巻6)の、「彷彿たり 白綿 紅雨の両句に、謝公の亭外 旧青山」(注7)や、清初の著名な宣城出身の詩人、施閏章の、「郝(カク)元公学博 母艱(ボカン、母の死)を以て潁(エイ)州に帰る」詩(『学余堂詩「謝公亭」集』巻31)の「謝公亭畔の路、相送れば 離愁満つ」など、謝公亭には、いずれも離別の悲しみがまつわりつく。
 伝承(幻想)に従って作られた李白詩の力によって、宣城の詩跡と化した謝公亭そのものは、今日すでに失われているが、その跡地とされる付近は、今もなお舟の渡し場となり、江南の風情に満ちた景勝地である。我々一行は、のどかな風景を眺めつつ、しばし懐古の情にふけった。


(注1)南宋の葉廷珪『海録砕事』巻4下にもいう、「謝公亭、在宣城。太守謝玄暉置。范雲為零陵内史、謝送別于此」とある。『輿地紀勝』巻19、謝公亭の条には、「在宣城県北二里。九域志云、『斉太守謝玄暉置』。旧経云、『謝玄暉送范雲零陵内史。此其処也』」という。
(注2) 宛渓・句渓(現在は宛渓のみ)は、長江の1支流・水陽江にそそぐ。
(注3) 『李太白文集』(宋版)巻20の題下原注に「蓋し謝朓・范雲の游ぶ所」とある。李白はまた、「敬亭の北の二小山に登る…」詩(『李太白文集』巻19)にも、「客を送る 謝亭の北」という。
(注4)許渾が大中4年(850)、潤州城(江蘇省鎮江市)南郊の丁卯澗(テイボウカン)村舎で手写した自撰作品集の一部分「唐許渾烏糸欄(ウシラン)詩真蹟」(南宋の岳珂[ガクカ]『宝真斎法書賛』巻6所収)には、「謝亭送客」(謝亭にて客を送る)と題する。
(注5)中晩唐の姚合に「遊謝公亭」詩(『全唐詩』巻500)がある。
(注6)『文苑英華』巻308所収。『全唐詩』巻639には、「題宣州開元寺」の異文として注される。
(注7)原注に「太守に『白綿 細草に鋪(し)き、紅雨 芳渓に落つ』の句有り。往事 敬亭に在りて作るなり」とある。
(植木 久行)

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