詩跡名 西澗(せいかん)
別称  
地理 安徽省滁州(じょしゅう)市
代表作 唐・韋応物「滁州西澗」
訪問日 2005.9.6
関連語 城西ダム
その他  
説明  滁州市の西郊(約1.5キロ)にあった谷川の名。もと小沙河に属し、滁州西部の山間から流れ出て東流し、烏兎河(烏土河。ウトガ)となり、滁州の城(まち)を貫流して、城の東側を南流する清流河にそそぐ。その主な河道が、滁州城の西にあるための呼称。1950年代の末、城西水庫[ダム]が作られて水没した。「滁州市区交通旅游図」(安徽人民出版社、2003年刊)によれば、現在「城西湖」と呼ばれる、その湖面下に西澗の遺跡があることになる。

 西澗は、建中3年(782)の夏、滁州刺史となった自然詩人、韋応物が、建中4年か翌興元元年(784)の春、あるいはまた、興元元年の冬、滁州刺史をやめて 、しばらく西澗付近に寓居 していた貞元元年(785)の春に作られた名作、「滁州西澗」詩(独憐幽草澗辺生、上有黄鸝深樹鳴。春潮帯雨晩来急、野渡無人舟自横)によって、詩跡化された場所である。詩題は、唐人選唐詩(『御覧詩』、『又玄集』巻中、『才調集』巻1)には、いずれも単に「西澗」に作る。

 本詩は、北宋の紹聖2年(1095)、滁州の長官になった曾肇(ソウチョウ)が、慶暦年間(1041~48)以前の滁州の事跡を詠んだ詩文を集めた『慶暦前集』の跋(南宋の王象之『輿地紀勝』巻42所引)に、「李衛公(徳裕)著懐嵩之記、李庶子(幼卿)刻泉石之銘、韋応物形野渡之詠」とあるように、滁州を詠んだ唐代の詩の代表作であった。なお韋応物は、「西澗即事 盧陟(ロチョク)に示す」詩のなかで、「空林に 細雨至り、円文 遍水(川面いちめん)に生ず。永日 余事無く、山中 木を伐るの声」云々と歌い、貞元元年の元日になる「歳日 京師の諸季(韋)端・(韋)武らに寄す」詩では、「松を聴く 南巌の寺、月を見る 西澗の泉」とも歌う。

 金の趙秉文(チョウヘイブン)は、「西澗に和す」詩(「擬和韋蘇州」の1、『閑閑老人滏水文集』巻5)を作っている。それは、韋詩に対する次韻詩であり、「雨荒竹逕草叢生、樹隔前渓一犢鳴。歩尋幽澗疑無路、忽有人家略彴横」(雨に竹逕(竹の生える小道)荒れて 草叢生し、樹は前渓を隔て 一犢(一頭の子牛)鳴く。歩みて幽澗を尋ぬれば 路無きかと疑い、忽ち人家有りて 略彴[リャクシャク、小さな木の橋]横たわる)という。

 明初、呉中の四傑の1人、徐賁(ジョホン)は、西澗の地を訪ねて、韋応物の詩と人柄を偲び、「滁州の西澗」詩(『北郭集』巻10)を作った。「渡連西澗草還生、六月黄鸝幾箇鳴。為憶風流韋刺史、也曾来此澗辺行」(渡しは西澗に連なりて 草還(な)お生じ、六月 黄鸝(コウリ) 幾箇(いくつ)か鳴く。為(ため)に憶う 風流なる 韋刺史、也(ま)た曾て此に来(きた)りて 澗辺を行(ある)く)。これは、韋詩の韻字のうち、生・鳴をその順序のままに用い、最後の韻字「横」のみ「行」字に換えて作った、依韻の七言絶句である。

 明初の鄒緝(スウシュウ)も、「滁守陳烱の 任に之(ゆ)くを送る」詩(注1)に、「東郊 春已(すで)に歇(や)み、西澗 潮還お生ず」と歌い、西澗が滁州を代表する詩跡であることを表している。

 また明の著名な文人、文徴明は、「胡栢泉に寄す」詩(『甫田集』巻14)の中で、「遥かに知る 西澗 春潮急にして、野渡の孤舟 尽日横たわるを」と歌った。滁州出身の范麟(ハンリン)の「西澗」詩(注2)は、韋詩を踏まえた、典型的な七律の詩跡詩である。「逶迤西澗郡城西、到晩潮声拍岸急、帯雨好山青隠隠、凝煙幽草緑萋萋。孤舟穏渡桃花浪、黄鳥間啼楊柳堤。消長誰能明此理、且将佳致入新題」(逶迤[イイ、長く連なるさま]たる西澗 郡城(滁州)の西、晩に到りて 潮声 岸を拍って急なり。雨を帯ぶる好山 青くして隠隠、煙(もや)を凝らす幽草 緑にして萋萋。孤舟 穏やかに渡る 桃花の浪(春の増水)、黄鳥(ウグイスの1種。黄鸝と同意)間(とき)に啼く 楊柳の堤。消長 誰か能く此の理に明らかなる、且(しばら)く佳致(すばらしい景色)を将(もっ)て 新題[新作の詩]に入れん)。

 旅の機会を捉えて熱心に詩跡を探訪した清初の大詩人、王漁洋(士禛[シシン])は、康煕24年(1685)の5月29日、南海(広州)からの帰途、滁州を通り、「西澗」詩(『漁洋山人精華録』巻10)を作った。時に52歳である。「西澗蕭蕭数騎過、韋公詩句奈愁何。黄鸝喚客且須住、野渡庵前風雨多」(西澗に 蕭蕭(馬の声)として 数騎過(よぎ)る、韋公(応物)の詩句 愁いを奈何(いかん)せん。黄鸝 客(旅人たる私)を喚べば 且(しばら)く須らく住(とど)まるべし、野渡の庵前 風雨多し)。詩の自注に、「澗の上りに野渡庵有り、韋詩(の結句)を取って命名す」とある。譚慶竜編『琅瑘山(ロウヤサン)詩詞選』(黄山書社、1990年)には、野渡庵について、「寺庵の名。旧跡は西澗の水辺にあった。南北交通の通路にあるため、宋以後、僧がここに住み、寺庵を建てた。現在久しく廃れている」と注する。

 滁州の西澗は、韋応物「滁州の西澗」詩1首によって詩跡化し、詩の意境と韋応物の人柄を偲ぶ詩跡となった。 今日、すでに清らかな湖水の下に沈んだため、その地を直接探訪できないのは残念である。

(注1) 譚慶竜編『琅瑘山詩詞選』所収。
(注2) 譚慶竜編『琅瑘山詩詞選』所収。同書は、「桃花浪」を「地名。西澗水の水源、桃花澗を指す」とするが、誤りであろう。ちなみに本詩は、第2句の韻が踏み落としである。(第1句は押韻)
(植木 久行)

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