詩跡名 琅瑘山(ロウヤサン)
別称  
地理 安徽省滁州(じょしゅう)市
代表作  
訪問日 2005.9.6
関連語 酔翁亭
その他  
説明  琅瑘山は滁州の西南5キロの地にあり、その名は、東晋の元帝司馬睿(シバエイ)が即位する前、「瑯(=琅)瑘王と為り、地を此の山に避け」(戦乱を避けて山に寓居)たことにちなむという(『太平寰宇記』巻128)。(注1) 中唐の顧況「琅瑘の上方に題す」詩にいう、「東晋の王家 此の渓に在り、南朝の樹色 窓を隔てて低(た)る」と。韋応物の詩中では、西山とも呼ばれている。北宋の王禹偁(オウウショウ)「琅瑘山」詩(『小畜集』巻10)の題下自注には、「東晋の元帝、琅瑘王を以て、常(かつ)て此の山に居る。故に渓山皆な琅瑘の号有り。知らず 晋已然 何の名なるかを」という。

 唐の滁州(ジョシュウ)刺史李幼卿
(注2)は、着任した大暦6年(771)、僧法深とともに琅瑘山中に寺院を建て、境内に庶子泉を穿った。寺の名は宝応寺、宋代、開化寺となり、琅瑘寺は、その通称である。庶子泉の名は、李幼卿の前官、太子庶子にちなむ。(注3) これ以降、琅瑘山の開発が進み、建中3年(782)、滁州刺史となった韋応物は、「琅瑘山寺に遊ぶ」「元錫と同(とも)に琅瑘寺に題す」「秋景 琅瑘の精舎(ショウジャ、寺)に詣(いた)る」詩などを書いている。

 北宋の至道元年(995)、滁州知事となった王禹偁は、「琅瑘山」詩を作り、「名を流すは 東晋よりし、積翠 南譙(郡名。滁州の地)に満つ」と歌い、寺(開化寺)の名勝を詠んだ「八絶詩」8首(『小畜集』巻8)を作った。北宋中期には欧陽脩ゆかりの酔翁亭や豊楽亭(亭のある豊山は、広義の琅瑘山の中に含まれる)が造られ、欧陽脩もまた、「瑯瑘山六題」詩(庶子泉・瑯瑘渓・帰雲洞など)を作っている。かくして北宋後期の曾肇(ソウチョウ)『滁州慶暦集』序にいう、「泉石林亭の勝、天下に聞こゆるに至る」(『輿地紀勝』巻42所引)状況が生まれた。これは、主に「人口に膾炙し、天下伝誦」(『大明一統志』巻18)した、欧陽脩の名文「酔翁亭記」の力であった。

 琅瑘寺と庶子泉・瑯瑘渓(瑯瑘寺の前から谷に沿って曲折しつつ、現在の深秀湖にそそぐ渓流。命名者は李幼卿)等は、いずれも琅瑘山の代表的な詩跡であるが、今回の訪中ではたまたま道路の補修工事のため酔翁亭付近で車を降りざるをえず、参観を断念した。琅瑘寺(民国5年[1916]再建)は、酔翁亭の前の道を進みゆき、山中の奥に入ったところにあったからである。譚慶竜編『琅瑘山詩詞選』(黄山書社、1990年)は、詩跡としての琅瑘山を考えるうえで参考になる。

 
(注1) 中唐の独孤及「琅瑘渓述」序にいう、「按図経、晋元帝之居瑯瑘邸而為鎮東也、嘗遊息是山、厥跡猶存」と。
 (注2) 『大明一統志』巻18には、李幼卿について、「大暦中 太子庶子より出でて滁州を知し、、善政有り。暇に琅瑘山に遊び、景物を号して八絶と為し、滁の人 之を慕う」という。これは、独孤及「琅瑘渓述」にもとづく。八絶は、王禹偁の「八絶詩」によれば、庶子泉・白竜泉・明月渓・清風亭・望月台・帰雲洞・陽冰篆・垂藤蓋をさす。
(注3) 姫樹明・兪鳳斌(ユホウヒン)編著『琅瑘山』(黄山書社、2003年再版)49頁によれば、明の嘉靖32年〔1553〕、鄭大同が濯纓(タクエイ)の2字を石に刻して以降、庶子泉は濯纓泉とも呼ばれるようになったという。
(植木 久行)

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