詩跡名 響山(きょうざん)
別称  
地理 安徽省宣城(せんじょう)市
代表作 李白「九日登山」
訪問日 2005.9.9
関連語  
その他  
説明  宣城市の東南郊外1・5キロの地にあり、山の形が葫蘆(ひょうたん)に似ているため、俗に葫蘆(コロ)山とも呼ばれる景勝地。 李白が天宝12載(753)の重陽節の日、宣城の別駕李某とともに新たに築かれた楼台に登って宴会を開いたときの作とされる「九日登山」詩に、「土を築いて 響山に接し、俯して臨む 宛水(宛渓)の湄(ほとり)に。胡人 玉笛を叫(な)らし、越女 霜糸(白き絃)を弾(ひ)く」云々とある。同じ李白の「宣城にて九日 崔四侍御 宇文太守と敬亭(山)に遊ぶを聞く。余 時に響山に登りて 此の賞を同じゅうせず。酔後、崔侍御に寄す 二首」詩も、同時期の作とされる。その1に、「晩(くれ)に南峰(城南の響山)より帰れば、蘿月(ラゲツ。ツタカズラの間から漏れる月光が) 水壁(みぎわの石壁)に下る」という。

 元和2年(807)、宣州刺史・宣歙池(センショウチ)観察使、路応は、響山亭を作り、さらに軍隊の兵営を左右に設置した。翌年、それをほめたたえた宰相権徳輿の文が、響山の岩に刻まれた。 権徳輿「宣州響山の新亭・新営の記」(『全唐文』巻494)には、付近の風景がこう記されている、「両岸聳峙(ショウジ)し、蒼翠対起す。其の南に響潭を得たり。清泚(セイセイ、清澄)にして鑑(かがみ)とすべく、縈迴(エイカイ)して澹淡(タンタン)なり」と。響山の東南端は宛渓(エンケイ)と青渓に臨み、二水の合流点に、響潭があった。こうして響山の名勝は知られ始めたのである。

 北宋の著名な詩人で、宣城出身の梅尭臣が、「宣州雑詩二十首」(『宛陵先生集』巻43)その3の冒頭で、「一たび響山の畔(ほとり)を過(よぎ)れば、常に路中丞を思う」と歌うのは、響山を開発した路応への思慕である。同じ詩中の「旧刻 磨滅多し」の旧刻とは、前述の「唐宣州響山新亭新営記」(権載之[徳輿]撰、『輿地紀勝』巻19)を指していよう。梅尭臣はまた、「久しく門前の勝を憶い、聊か逸興に乗じて遊ぶ」の句で始まる五律「響山に遊ぶ」詩の中で、幽邃・静寂な風景を、「寒篙(コウ、船をおし進めるさお) 渓曲に進み、古木 城頭に暗し。鳥は空潭を過ぎて響き、船は碧瀬(ヘキライ)に随いて流る」と歌うが、初めて響山を詠んだ詩人李白には、全く触れていない。

 ところが元の呉師道の五言古詩「九日 響山に登り、同遊者に奉呈す」(『元詩選』巻44)は、登高が行われる重陽節に作られた李白の詩を念頭に歌い始める。「響山は 響潭に臨み、曽て太白(李白の字)の来(きた)るを識れり。我 其の間(その地)に遊ばんと欲し、却って仙才に非ざるを愧づ。況(いわ)んや乃ち微官を博(え)て、終年 塵埃(ジンアイ)に走るをや。幸いに茲(ここ)に 九日至り、群彦と陪(したが)うを獲(え)たり」云々とある。そして「前に孤城(宣州城を指す)の低きを睨(うかが)い、下に清渓の迴(めぐ)るを瞰(み)る。諸峰 遠色を送り、攬結(ランケツ、攬は手につかむ) 何ぞ雄なる哉(かな)。野菊 半ば英(はな)を含み、濁醪(ダクロウ、濁り酒) 初めて発醅す」とうたう。

 清初の著名な詩人で、宣城出身の施閏章(シジュンショウ)は、「唐寓庵使君に陪いて舟を響山潭に汎(うか)べ、因りて玉山に登る」詩(『学余堂詩集』巻37)の前半に、「陵陽(宣城)の南畔 釣竜湾、赤壁
(注1)の高台 緑水の間。一たび錦袍(李白が宮中で着た礼装用の錦の上着。ここでは李白を指す)仙去して後より、今に到るまで 烟月 意 長えに閑なり」云々とあり、「地は故(も)と竇(トウ)子明 白竜を釣りし処、李太白 嘗て游詠す」の原注が付されている。響山は、李白ゆかりの詩跡として認識されるようになったのである。(注2) 

 今回、我々は、家々や畑の間を縫って、ようやく響山(葫蘆山)を訪ねた。昔の面影には乏しかったが、宣城の響山を探索した訪中団は、おそらく我々が唯一ではなかろうか。ここにその写真を発表できるのは、深い喜びである。

(注1) いわゆる響山の赤壁と呼ばれる、高さ6メートル、幅10メートルの、水辺の名勝。清の蔡大杰(サイダイケツ)「響山の赤壁」詩にいう、「響山突出す 鰲峰(ゴウホウ、宣城のまちの中にある)の前、東南に雄踞して 虎の眠れるに似たり」(宣州市地方志編纂委員会編『宣州概覧』黄山書社、1988年、65頁所引)と。

(注2) 施閏章にはもう1首、「響山臨眺 諸子と同(とも)に杓司を懐う有り」(『学余堂詩集』巻25)も伝わる。
(植木 久行)

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