詩跡名 杏花村
別称  
地理 安徽省池州市
代表作 杜牧(?)「清明」
訪問日 2005.9.
関連語
その他  
説明  池州市(もと貴池市)の西郊1キロのところにあり、2003年に「杏花村古井文化園」として整備された。園内には「黄公酒壚」「黄公井」「杏花亭」「煥園(『杏花村志』の編者、清・郎遂の故居)」などがあり、文化園が面する大通りの交差点には杜牧の大きな塑像が建てられている。
 杏花村の詩跡化は、一般に杜牧の「清明」詩に始まるとされる。

  清明     清明
 清明時節雨紛紛  清明の時節 雨 紛紛
 路上行人欲斷魂  路上の行人 魂を断たんと欲す
 借問酒家何處有  借問(しゃもん)す 酒家 何処にか有る
 牧童遥指杏花村  牧童 遥かに指さす 杏花村

 しかしここには二つの問題点が存在する。一つは「清明」詩は杜牧の別集には見られず、南宋・劉克荘の『分門纂類唐宋時賢千家詩選』が初出であることから、従来、杜牧の作なのかどうか疑問が持たれていたということ。二つ目は、詩中に詠まれた「杏花村」が一般名詞(つまり、「杏の花咲く村」)なのか固有名詞なのか、もし固有名詞であるとすればどこにあるのか、という問題である。

 前者については、一に許渾の作であるという説があるものの(参考、胡可先『杜牧研究叢稿』人民文学出版社、1993年)、今日ではほとんど杜牧の作品として通行しているようである(ただし、それを否定する学説は存在する)。後者については、山西省と安徽省の二つの説があるが、もしも杜牧の作品であると仮定した場合、安徽省が有力になる。なぜなら、杜牧は、少なくともその判明している伝記の中では山西省に赴いたことがないからである。このように、学問的に見た場合まことに多くの問題をはらんでいる「清明」詩であるが、一般に受け入れられるに当たっては、その様な問題はさしたる障害とはならないようである。

 「杏花村古井文化園」では、「清明」が杜牧の作であるということを完全に肯定した上で(園内で入手した資料『千古杏花村』丁育民・張本健主編、黄山書社、2002年、及び『杏花村古井文化園旅游指南』安徽省杏花村文化旅游発展有限公司編印、2003年には、「清明」が杜牧の作であることを疑うような記述は全く見られなかった)、「清明」詩に題材をとった、杜牧を主人公とする黄梅劇(安徽省における民間戯曲劇)の幾つかの場面が壁画として描かれていた。斉山の場合と異なり、ここでは杜牧は土地の有名人として大きく顕彰されている。

 しかし詩歌の享受史から見た場合、杏花村の詩跡化はかなりのちになってからである。池州に関する地理・方志書のなかで、今日遺る最も古いものは『嘉靖池州府志』であるが、該書の巻一「輿地篇・古蹟」には「杏花村」の名を挙げ、杜牧の「清明」詩を引用するものの、巻八「雑著篇上・藝文」には杏花村ゆかりの作品は一首も収録されていない。同じ巻の「斉山」には、関連作品が数多く収録されているのに比べ、実に対照的である。

 また、前出の『千古杏花村』には「二、古人吟咏杏花村」という章があり、見出しこそ「杏花村」の語が使われているものの、そこに集められた詩、詞、歌、賦は池州全体に関するものが多く、杏花村そのものを詠った作品は明代以降にしか見られない。しかもその多くは池州出身者の手になるものである。このことから、池州「杏花村」の詩跡としての歴史は、ほぼ明代頃から始まると考えるのが穏当であろう。

 「杜牧と池州」という結びつきはすでに唐代からあったが、南宋以後「杜牧と清明詩」という結びつきが新たに生まれ、その両者が-経緯の詳細は不明であるが-いつの頃からか融合し始め、明代頃に池州における杏花村の存在がかなり意識されるようになったのであろう。言い換えれば、明代になって、「池州―杜牧―杏花村」という図式がほぼ出来上がったということである。

 ここで興味深いのは、斉山と杏花村は、いずれも杜牧に関係した詩跡でありながら、杏花村の方が杜牧に対する顕彰の度合いが高いことである。この現象は何を意味するのであろうか。詩跡としての歴史、作例数及び作者層(杏花村ゆかりの作品は、主に下層知識人のものが多い)から見て、杏花村は斉山より明らかに劣ると思われるし、また、作品自体に内在する文学的影響力の点からも、「清明」は「九日斉山登高」に及ばないと言えよう。
 これはおそらく、詩人に対する(現代/現地)中国人の評価の表れではないだろうか。より具体的にいえば、杜牧という詩人のエピソード性を高く評価した結果、このような現象が生じたということではないだろうか。

 杜牧がエピソードに富む詩人であることは論を待たない。若き日の揚州における風流韻事は有名であるし、それを題材にとった「杜牧之揚州夢」という劇本まであることからも、それは明らかであろう。つまり、杜牧の闊達な一面がよく表れた「九日斉山登高」詩も良いが、こぬか雨の中、酒屋を求めて難儀する杜牧の方が、民衆の目にはより一層杜牧らしく映るのではないかということである。杜牧の「艶」なる側面、「風流才子」としての一面を、民衆は期待しているのである。その証拠に、文化園の回廊に描かれた黄梅劇「情灑杏花村」では、杜牧が村を訪れ、名歌妓の張鶴娘と詩のやりとりをしたことで気持ちが慰められるという場面が出てくる。やはり、「酒」と「女性」の方が、杜牧には似合っているのだ。

 「九日斉山登高」にも「携壺」「酩酊」が出てくるが、ここでは、重点はむしろ後半の闊達な感懐の吐露にある。一方の「清明」は、専ら「酒」。しかも杏の花に囲まれた、景色の良い酒屋に勇んで行こうとしたところで詩は終わっている。酒に因んだ「黄公酒壚」「黄公井」という遺跡のある杏花村古井文化園では、杜牧は前面に出ざるを得ない。その結果、斉山よりこちらの方が顕彰の度合いが高くなったのであろう。エピソード性からいっても観光地として人に受け入れられやすく、詩跡として整えるには好条件が揃った場所だったのである。                                                    
    (松尾幸忠) 

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