詩跡名 広教寺
別称 双塔寺
地理 安徽省宣城市
代表作
訪問日 2005.9.
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説明  宣城市北郊2・5キロの著名な詩跡、敬亭山の南麓にあった古刹の名。晩唐の大中3年(849)、宣歙(センショウ)観察使・宣州刺史の裴休によって建立された。(注1) 北宋の紹聖3年(1096)には、27メートルの間隔で東西に対峙する方形(唐代風)の美しい仏塔、いわゆる双塔が建造されている。それぞれ7層が残存し(塔頂崩落)、高さ約17メートル、第2層の内壁には、元豊4年(1089)、北宋の蘇軾が書いて広教院の模上人に贈った『観自在菩薩如意輪陀羅尼(ダラニ)経』(楷書)の墨跡を、15年後に模刻した石がはめ込まれている。かくして広教寺は、俗に双塔寺と呼ばれることになる。(注2)
 宣城出身の北宋の著名な詩人・梅尭臣は、広教寺に言及する詩を数首残している。「正仲・屯田と与(とも)に広教寺に遊ぶ」詩(『宛陵先生集』巻41)には、「古寺 深樹に入り、野泉 暗渠に鳴る。酒杯に 茗具(茶具)を参(まじ)え、山蕨(ケツ、わらび) 盤蔬(バンソ、大皿に盛られた食べ物)に間(まじ)う」とあり、「緒弟及び李少府と与に広教の文鑑師を訪ぬ」(『宛陵先生集』巻37)という詩には、「紫蕨は老ゆるも食(くら)うに堪え、青梅は酸なるも嫌(いと)わず。野蜂 時に座に入り、岩鳥 或(とき)に檐(のき)を窺う」という。いずれも俗塵を断った静謐な山寺の描写である。
 北宋末の呂本中「昭亭(敬亭山)の広教寺」詩(『東莱先生詩集』巻11)には、「草暗くして 鼯鼠(ゴソ、むささび)出(い)で、山深くして 鵯蛸(ヒキョウ、夜明けに鳴く黒い小鳥の名、俗称は催明鳥)鳴く」と歌う。元の何儒行「清明の前一日 施敬叔、約して広教寺に遊ぶ」詩(『宛陵群英集』巻9)には、境内の幽静な神聖さが、「山中 雨ふらざるに 花 常に潤い、林下 人無きに 蘭自(おのず)から馨(かお)る」と詠まれている。続いて明の宣城出身の徐夢麟「広教寺に遊ぶ」詩(注3)にいう、「真界(仏教寺院) 黄蘗(希雲)に開かれ、千年 塔 并存す。松風 絶壑(ゼツガク、深く険しい谷)に生じ、蘿月 頽門を掩(おお)う」云々と。
 そして宣城出身の清の著名な詩人・施閏章「双塔寺」(題下の原注「敬亭の麓に在り。黄蘗禅師より昉(はじ)まる。一に広教寺と名づく」、『学余堂詩集』巻8)には、「双塔 老翁の如く、蒼顔(老衰した顔色) 肩を比(なら)べて立つ。上に玉局(蘇軾)の銘有り、摩挱(マサ、なでる)するに 層級(多くの階段)を隔つ」とあり、さらに建立時の荘厳な規模を、「裴守(裴休) 招提(ショウダイ、寺院)を侈(ひろ)くし、棟宇 原隰(ゲンシュウ、高原と低湿地)を蔽(おお)う」と思いやる。
 広教寺(双塔寺)の場合、特定の源泉と言うべき名詩は見あたらないが、長く歌い継がれてきた詩跡である。現在、山門等が造られて整備されたが、寺院はすでに無く、千年弱の風雪を耐え抜いた双塔のみ、「老翁の如く」立ち、往事を偲ばせている。


(注1)『江南通志』巻175にいう、「大中三年、裴休 宣州を知(おさ)めしとき、(黄檗希雲を)迎えて開元寺に居らしめて法を受け、広教寺を敬亭(山)の南麓に創る」と。裴休は、大中2~3年、宣歙観察使・宣州刺史であった。
(注2)『江南通志』巻47、広教寺の条に、「山門に浮屠(仏塔)の 双峙する有り。一に双塔寺と名づく」とある。
(注3) 安徽宣城市文化局編『歴代名人吟宣城』(皖[カン]内部性資料図書2004-092号、宣城市中亜印務公司印刷)所収。
(植木 久行)

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