詩跡名 宣州開元寺
別称  
地理 安徽省宣城市
代表作 杜牧「題宣州開元寺」
訪問日 2005.9.9
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その他  
説明  宣州(宣城)城内にあった名刹。より詳しく言えば、州庁(県庁)の北の陵陽山第三峰(現在の宣城市区・開元小区、区政府の東北に位置する[注1])に置かれ、宛渓(エンケイ、境内の東側を北流する)に臨む広大な寺院の名。著名な謝朓楼はその南に、また宛渓にかかる済川橋(セイセンキョウ、李白詩の双橋の1つ。現在の名は東門大橋)はその東南にあった。東晋期に創建された寺は、初め永安寺、初唐期に大雲寺、そして玄宗の開元26年(738)、開元寺となり、「蘭若(ランニャ、寺院)中の最も勝れし者」(『大清一統志』巻80)であった。北宋の景徳年間(1004~7)、景徳寺となって以降は、清代・民国まで景徳寺として存続した。 
 晩唐の杜牧は、観察使の幕僚として、生涯に2度、宣州(宣城)に滞在した。開成3年(838)、36歳のとき、寺の古い歴史に思いを馳せつつ、楼上から眺望した感懐を、「宣州開元寺の水閣に題す」詩のなかで、「鳥去り鳥来(きた)る 山色の裏(うち)、人歌い人哭す 水声の中。深秋 簾幕 千家の雨、落日 楼台 一笛の風」云々と歌った。
また同じ頃の作、「宣州の開元寺に題す」詩には、広大で静謐な境内の様子が、「楼は飛ぶ 九十尺、廊は環(めぐ)らす 四百柱。高高下下の中、風は繞(めぐ)る 松桂の樹。青苔 朱閣に照り、白鳥 両(とも)に相語る」云々と描写されている。さらには、「小楼 纔(わず)かに受く 一床の横たわるを、終日 山を看て 酒 満傾す」と歌う「宣州の開元寺の南楼」詩もあって、杜牧は、この宣州の開元寺に深い愛着を示した。
 さらに杜牧は、後に「何人か為(ため)に倚(よ)らん 東楼の柱、正に是れ 千山 雪 渓(宛渓)に漲る」(「宣州の開元寺に寄題す」)と詠んで懐かしむ。
 杜牧と交遊した趙嘏(チョウカ)の「開元寺の水閣に題す」詩(『輿地紀勝』巻19)に、「(宛渓の)波は十里を穿って 橋は寺に連なり、絮(柳絮)は千家を圧して 柳は春を送る」とあるのは、暗に前掲の杜牧詩の影響下にあろう。またやや後の杜荀鶴「開元寺の門閣に題す」詩の「何れの処の画橈(ガジョウ、画船)か 緑水を尋ね、幾家(いくいえ)の鳴笛ぞ 紅楼に咽ぶ」(『唐風集』巻2)も、同じであろう。 
 杜牧の名詩に彩られた宣州開元寺は、北宋期、景徳寺と改名されたためであろうか。詩跡として成長することはなかったようである。宣城出身の北宋の詩人、梅尭臣は、「開元寺の明上人の仮山(庭園の築山)に寄題す」(『宛陵集』巻36)を作るが、この開元寺は、景徳寺を旧称で呼んだものであろうか。(注2)
現在、寺跡の一角には、北宋期の姿を留める開元塔(景徳寺多宝塔、九層高さ34メートル)のみが残っている。明の著名な劇作家・湯顕祖は「開元寺の浮図(フト、仏塔)」詩のなかで、美しい眺望を、「嶺樹 嵐(ラン、山気)に湿(うるお)うかと疑い、岩花 瞑(=暝、日暮れ)に入りて薫る」と歌っている。(注3) 塔の倒影は、かつて宛渓のさらに東を北流していた句渓(コウケイ、現在、この川は痕跡のみを残す)の水面に映っていた。これが「句渓の塔影」と呼ばれる宣城の勝景である。清の劉方靄「句渓の塔影」詩にいう、「中より湧く 江城(宣城)の塔、波の痕 迴(めぐ)るも迷わず(明瞭なさま)」と。(注4)

(注1) 「宣城市交通導游図」(山東省地図出版社、2005年1月第2版)による。
(注2) 『大明一統志』巻15、寧国府・景徳寺の条に、「府城の内に在り。本と晋の永安寺。唐、開元に改む。宋、又た今の名に改む」とあり、『江南通志』巻47、寧国府・景徳寺の条に、「宋の景徳中、今の名に更(あら)たむ」という。
(注3) 安徽宣城市文化局編『歴代名人吟宣城』(皖[カン]内部性資料図書2004-092号、宣城市中亜印務公司印刷)所収。
(注4) 宣州市地方志編纂委員会編『宣州概覧』黄山書社、1988年、64頁所引による。
(植木 久行)

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